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鷗外さんの「小倉日記」⑰驟雨

小倉城下町さんぽ・鷗外さんの「小倉日記」⑰

(明治三十二年七月)
二十一日。病癒えて登衙す。午後驟雨あり
二十二日。 夜來大雨。午後微凉。 出でゝ山根を訪ふに家にあらす。砂路多くは溝洫を設けず。 水溢れ石露る。履歯を折りて還る。
二十三日。日曜日なり。猶涼氣あり。午後神保濤次郎至る。 支那武昌に赴く途上、門司にて舟を下りたるなり。三樹亭に晩餐を供し、送りて停車場に至る。神保は此より長崎に至りて、再び舟に上ると云ふ。


7月21日、腹下しも治まり、第12師団司令部に出勤しました。
北部九州はちょうど梅雨明け間近の頃で、「驟雨あり」。
翌日も夜来の雨。
そのせいか、午後からはやや涼しくなったようです。
小倉日記には、几帳面な鷗外さんらしく気候のこともよく出ます。
気象庁の記録のある範囲では、梅雨明けの早いのは1773年の7月6日、遅いのは2009年の8月4日で平年は7月19日ですから、この頃は梅雨末期の雨だったのでしょうか。
師団司令部の山根参謀長を訪ねましたが留守。
家に帰る時、道が悪く下駄の歯を折って難渋しました。
小倉の町、特に紫川東岸の東曲輪は砂地で、雨が降ると溝洫(側溝)もないので、道に水が溢れて石があらわれ下駄では歩きにくかったでしょうね。
小倉を舞台にした小説「鶏」にも、小倉は道に石炭屑を敷いているので、雨が降ると水が溢れると書いています。
この頃、政府は鉄道整備優先で、道路は江戸時代の街道とあまり変わらなかったようで、土を突き固めるか敷石、砂利を敷くくらいでした。
まだ国全体がインフラ、道路の整備までの余裕がなかったのでしょう。
今日見られるようなアスファルト道路が本格化するのは大正8年に道路の基準(道路法)が制定されてからです。

23日、明治22年1月7日に博聞社から出した「體育學(体育学)」という著書のある三等軍医・神保濤次郎が支那・武昌(現在の中国)に行く途中門司港で下船、鷗外さんはなじみの三樹亭で食事、神保は長崎へ向かうので停車場(小倉駅)まで送りました。

「体育学」の表紙

神保の著した「體育學」は「日本人がみずからの研究ならびに現状に対する批判を加えて、自己の識見にもとづ いて構成した最初の体育論」と評価されています。
武昌は湖北省、揚子江の沿岸で、辛亥革命の武装蜂起が起こった地です。

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