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鷗外さんの「小倉日記」⑯下関要塞司令部・北方を視察

七月十日。日曜日に丁る。多く書を裁す。
十一日。 馬關に至り、要塞を看る。勝田少将と相見る。
十三日。登衙して木越少将に逢ふ。
十四日。始て北方に至る。 歩兵第四十七連隊及工兵を看る。
審美綱領新に成る。 春陽堂これを送寄す。
十五日。又北方に至る。野戦砲兵及騎兵營を看る。 家に帰りて臥褥す。
是より先き十三日朝下利(下痢)あり。
漸くにして増悪せり。
二十一日。病癒えて登衙す。午後驟雨あり。

初めての管内での徴兵検査から帰り、10日は家で静養しました。
日曜日と書いていますが、実は月曜日です。
本人の間違いか、清書した時の間違いかわかりません。
翌日11日は下関要塞を視察しました。馬関とは下関の古い呼び名です。

下関市山の口の下関要塞司令部

北九州では、清国の大艦隊の来襲に備え、明治20(1887)年ごろから関門海峡を防御するため下関市彦島の「田の首」と北九州市小倉北区の「手向山(田向山)」の砲台を起工し、下関要塞の建設が始まりました。
明治28年にはこれらを管轄する「下関要塞司令部」が設置。北九州・下関地域の広い範囲が下関要塞地帯に指定され、要塞地帯法でさまざまな活動が制限されました。

皆さんも「下関要塞司令部許可」と書かれた古い写真やはがきを見たことがあると思います。

下関要塞司令部許可、大坂町の絵はがき
表題の上に下関要塞司令部許可とある

勝田少将とは勝田四方蔵、山口県出身で、この年、2回目の下関要塞司令官になっていました。13日は師団に登庁し木越安綱少将に会います。木越安綱少将は石川県出身、ドイツ留学の経験があり、帝国陸軍におけるドイツ化の功労者といわれます。同じくドイツに留学していた鷗外さんとは話がはずんだことでしょう。

木越安綱少将(ウイキペディアから)

14日、北方(小倉南区)の歩兵47連隊に行きました。
歩兵第47連隊は現在の陸上自衛隊小倉駐屯地のあるところです。
明治30年に北方に兵営を新築し移動しました。
周辺には騎兵第12連隊、野砲兵第12連隊、工兵第12大隊、輜重兵第12大隊、小倉衛戍病院などが配置され、城野、北方周辺は「兵隊さんの町」になります。

陸上自衛隊小倉駐屯地
小倉衛戍病院跡碑

東京時代に書いていた「審美綱領」(大村西崖共著)はハルトマンの「美の哲学」の大綱を編述したものですが、春陽堂から本になり送ってきました。
次の日も北方行きでした。
連日の視察で疲れが出たのでしょうか、13日に下痢をしていたのを無理して動き回ったからか、帰宅して寝込んでしまいました。
「増悪せり」とあるので悪化したのでしょう。
数日寝込んでしまいます。

このころは衛生状態も悪く、下痢などになることがよくあったようです。
おなかの状態が良くないときは、ラッパのマークの黒くて苦い薬「正露丸」をよく飲まされたものです。

現在の正露丸

「正露丸」は木クレオソートで、ブナ、マツなどを炭化する際に得られる木タールを蒸留して精製される微黄色透明の液体です。古代から化膿傷の治療に用いられ、後に防腐剤として食肉用等で使用、その後殺菌作用を期待して胃腸疾患(とくに下痢)に内服されるようになりました。
明治の初期、鷗外さんらによって軍の薬として活用されるようになります。
1902年(明治35年)中島佐一氏が「忠勇征露丸」の売薬営業免許を大阪府から取得、1904年(明治37年)日露戦争時に日本軍で「征露丸」として製造、陸海軍に配布されました。
「征露丸」の露とはロシアのことです。
戦後、「正露丸」と改めました。
鷗外さんは間もなく回復しましたが、この時、「征露丸」を服用したか、日記には書かれていません。
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