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鷗外さんの「小倉日記」㉑ベルツの実験

小倉城下町さんぽ・鷗外さんの「小倉日記」㉑ベルツの実験

(明治三十二年七月)

ベルツ博士は1876年(明治9年)に来日、東京医学校(現東京大学医学部)で教鞭を執り、約30年にわたって東京に留まり、日本に近代医学を根付かせた功労者の一人です。
1899年(明治32年)7月の終わり、ベルツ博士が鷗外さんを訪ねて小倉に来ました。

ベルツ博士

ベルツ博士については次のようなエピソードが残っています。

ベルツ博士は日光東照宮へ観光に行ったのですが、馬を6回乗り換えて110kmの道のりを14時間もかかりました。
2度目は人力車に乗って日光に行きましたが、驚くことにその車夫はたった一人で、馬より30分余分にかかっただけで東照宮に到着してしまったのでした。

明治時代の人力車(イメージ)

馬の方が力はあるし格段に速いはずですが、この車夫の体力はいったいどこから来るのだろう、と博士は考えました。
博士は驚いて車夫に「何を食べているか」と尋ねたところ、「玄米のおにぎりと梅干し、味噌大根の千切りと沢庵」という答えでした。
聞けば平素の食事も、米・麦・粟・イモなどの典型的な低タンパク・低脂肪食。
明治初期ですから、まだ肉など食べません。外国人のベルツ博士からみればかなりの粗食でした。

驚いたベルツ博士は、この車夫にドイツの進んだ栄養学を適用した食事をさせればより一層力が出るだろう、その成果を比較検証してみたいと実験を試みました。
「ベルツの実験」です。
22歳と25歳の車夫を2人雇い、1人に従来どおりのおにぎりの食事、他の1人に肉の食事を摂らせて、毎日80㌔の荷物を積み、40kmの距離を走らせました。
すると肉料理を食べた車夫は疲労が次第に募って走れなくなり、3日で「どうか普段の食事に戻してほしい」と懇願してきました。そこで仕方なく元の食事に戻したところ、また走れるようになったそうです。
一方、おにぎりの方はそのまま3週間も走り続けました。

ご飯中心の質素な食事(イメージ)

当時の人力車夫は、一日に50km走るのは普通でした。
ベルツ博士の思惑は見事に外れたのでした。
彼はドイツの栄養学が日本人には全くあてはまらず、日本人には日本食がよいという事を確信させられました。
また日本女性についても「女性においては、こんなに母乳が出る民族は見たことがない」とベルツ博士はもらしています。
その後ベルツ博士は日本女性・花と結婚、帰国後はドイツ国民に菜食を与えたほどでした。

ベルツ花(草津ベルツ記念館 展示写真より)

花夫人は元治元年11月18日生まれ。明治21年、ベルツ博士と結婚。伊藤博文の妻に勧められたといいます。博士との間に徳・歌の二人の子供を授かりました。
ベルツ博士が20年以上に亘り教えた東京大学を辞しドイツに帰国した折り、一緒にドイツに渡りました。ドイツ滞在中は、大戦前夜のドイツを著した『欧州大戦当時之独逸』 (1933) を著しました。
大正2年、ベルツ博士が、大動脈瘤で病死した後、11年帰国。昭和12年2月7日に74歳で亡くなりました。

また、ベルツ博士は当時の日本女性の手荒れなどに効く「ベルツ水」(グリセリンカリ液)も考案。今でも市販されています。

「ベルツ水」(グリセリンカリ液)

ベルツ博士は無条件で西洋文化を受け入れようとしている政府に対し、こんな言葉を残しています。
「もしあちらのすべてを受けようというのなら、日本人よ、おさらばだ」と。

現在ではこの実験の日本食礼賛は必ずしも正しいとは言えません。人力車夫の食事はアスリートの栄養摂取に似ているそうですが、バランスの取れた食生活こそ、健康的な暮らしにいちばん大事とされています。

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