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妖術「悩みは解決すべき!」


夫婦や彼氏彼女の間で起きる「あるあるトラブル」のひとつに、「女性からの悩み相談や愚痴に対し、男性が正論で返したことで大喧嘩に発展」という話を聞きます。

これはなにもパートナー間に限った話ではありません。性別を問わず、仕事上での上司と部下、友人同士、あらゆる場面でこの火種が灯されています。点火役をつとめるのは「正論」。「妖怪べきねば」のコアともいえる思想です。

「正論アドバイス」に従わない相手にイライラする

私自身、ウジウジと悩むのが趣味のようなところがあります。ぼんやりとした私の愚痴に対し、スパッと正論が飛び込んでくるときの「そういうことじゃないんだよな……」とか、「そんなことはわかっているんだけど、それができないから悩んでいるんじゃないか……」といったがっかり気分はよく知っています。

なのに! 「妖怪べきねば」より授かった「正論刀(せいろんとう)」での猛攻撃、やってしまいました。この刀を手にしたとたん、「俺は最強」という気持ちになってしまうのです。

しばらく前、友人からお悩み相談というか、愚痴というか、なんともいえない不安について語られたことがありました。おもしろいもので、他人の悩みというのは解決策がパッと思い浮かぶものです(自分の悩みはいつまでたっても迷走状態だというのに!)。そんなときにどこからともなく妖怪から「正論刀」が差し出されました。持った瞬間に「勘違い最強モード」に突入!

「え、こうすればいいだけじゃない?」
「こんなにも答えは明白なのに、なぜ行動を起こさないの!? すぐやろう!」
「そんなことだから状況が変わらないのよ!」

こんな具合で、友人の愚痴や不安をバッサバッサと斬っていったのでした。

悩み解消のアイデアを思いついた自分に酔ったことも、否定できません。スパッと斬ったときの感覚は形容しがたい快感でした。気分はすっかり、鬼退治をした桃太郎です。「私の一太刀で鬼は改心したことであろう」なんて調子で、悦に入ってしまいました。

それから少しして、同じ友人に会うことに。「改心した鬼」の様子が見られると楽しみにしていたものの、会ってみれば先日から状況はなにも変わっていませんでした。デジャヴかと思うほど、お悩み内容が一字一句まるまる同じです。 なんたることだ、急所を外したか……。正論刀の柄に手をかけ、再び斬りかかります。

「なんで私が言うとおりにしないんだ!!」

返ってくるのは「そうだよね……」、「でも……」、「わかるんだけど……」という虫の息。ふむふむ、一撃必殺とはいかなかったが、これで鬼の命もまもなく尽きるであろう……御免。勝利を確信した私は再び爽快な気持ちに包まれました。

その友人に会う機会はそれから数回ありましたが、会っても会っても、斬っても斬っても、状況はなにひとつ変わりませんでした。

イライラしました。

こんなにも明快に解決策を伝えているというのに、実行せぬままウジウジ悩み続けるなんて! そんなの自業自得じゃないか! 以来パブロフの犬が如く、彼女の姿を見ると自動的に「イライラスイッチ」が入ってしまうように。結果、疎遠になってしまいました……。

「正論」と「正解」は別物

イライラの原因は、私が考える「こうあるべき友人の姿」と、それに反している「現実の友人の姿」のギャップです。自分の意見を正しいと信じてやまないがために、それに従わない友人を「間違っている」と断罪して心の距離をつくってしまったのです。

いまなら自分に疑問を投げかけることができます。きっと第三者である皆さんも、過去の私に同じことを問うはずです。

「あなたの正論アドバイスとやらは、本当に『正しい』のですか?」

信じていた足場がぐらりと歪む感覚。その場では疑う余地もありませんでしたが、一歩引いて第三者の目で自分を見つめると、振りかざしている「正論刀」がガラクタであったことがわかります。あのとき抱いた達成感は独りよがりなものでした。相手の悩みを「斬って」などおらず、なまくら刀でただ「ぶつかった」だけです。

数学の問題のように「ひとつの答え」が用意されている課題なんて、人生にはほとんどありません。親、先生、先輩、上司、友人……いろいろなところからアドバイスをもらうことはあっても、それは各人の主観に基づく「意見」の域を出ないのです。前述の友人の悩みに対しても、いまなら別の解決策が浮かびます。他の人がいれば、さらに異なる案が出てくることでしょう。全部が横並びの「意見」です。そこに偉いもゲスいもありません。

そのなかに、「同じ意見を出す人たち」がいます。彼らは顔を見合わせて「だよね!わかる~」などと言って意気投合、「マジョリティ・パワー」をもって悩み主に攻撃をしかけるのです。「みんなが言っているから」論法が効いてしまう人は、これを「そうか、この人たちの意見が正しいんだ!」と真に受けがち(自戒も込めて書いています)。でも、所詮は「いち意見の集合体」に過ぎません。いくつ集まったところで「正解」には変化し得ないのです。

早く「正解」にたどり着きたい!

実態はそうではないのに、正論をぶつけて「正解」然とした振る舞いをしてしまうのはなぜなのでしょう。その答えはシンプルだと思います。ズバリ、「気持ちいいから」。なぞなぞだって、知恵の輪だって、クイズ番組だって、正解すれば気持ちいいものです。

あれ、そんなエゴイスティックでいいの? と思われたかもしれません。そうです、そもそもは相手からの悩みや愚痴といった「課題」の提示が発端になっていたはず。解決策を考え、アドバイスしたのは「相手を救いたいから」ではないのでしょうか?

己の醜態を晒すことに勇気がいりますが、正直に書くと、私のなかに「友人を助けたい」という気持ちはありませんでした。悩みや愚痴というお題をもらった瞬間から、脳みそはウキウキしはじめてしまったのだろうと思います。だって解決策を思いついたとき、気持ちよかったですもの。ドヤ顔で正論アドバイスをしているとき、名刀でスパッと居合斬りをしているかのような気持ちになっていましたもの。手にしていたのはポンコツ刀だというのに、です。

動機がなんであれ、悩み解決に向けた正論を述べられたのは、意見がひとつ増えたという点でよかったことだと見なしましょう(ちょっと強引ですが)。問題はその先、「どうして言うとおりにしないの」という苛立ちです。先ほど「自分の意見を正しいと信じてやまないがために、それに従わない友人を『間違っている』と断罪」したと書きました。これに加え、「正解欲求」もイライラの火種になっています。

「自分の出した答えは合っているのか? 間違っているのか?」。たとえ間違いだとしても、結果がわかればスッキリ感が得られます。相談主が私の提案をもとに行動を起こせば「正解」だったとわかりますし、明確に「違う」と言われていれば「不正解」(これはこれでイラッとするんでしょうけれど、不正解とわかれば次の策を出すはず)だったということ。

しかしながら相手から返ってくるのは「わかってはいるんだけど」とか、「確かにそうなんだよね……」といった、「間違ってはいないが、行動に起こすほど納得もできていない」という反応であることがしばしば。正解でも不正解でもないということで、こちらとしては悶々とした心境に陥ります。早くスッキリしたい! 早く正解してガッツポーズをとりたい! そんな答え合わせ欲求がイライラにつながっています。

「正解」を出せるのは悩んでいる本人だけ

私も悩み多き人間です。いろんなところでいろんな相談をしてきました。友人や先輩、上司に悩みを吐露したこともあったし、Yahoo!知恵袋もさんざん見てきたし、カウンセラーのもとを訪ねたこともあります。120分で6万円の個人カウンセリングを受けたことも。

結局、当時の私の悩みは6万円セッションをもってしても解決できませんでした。ここで「まったく役に立たなかったぜ! ボッタクリだぜ!」と書けたらいいのですが、完全に役に立たなかったわけではないから悔しい(笑)。「解決に向けた材料のひとつ」にはなっているからです。

友人に相談すると起こりがちなのが、「相談に乗ってもらうどころか、逆に悩みを聞かされて傷の舐めあいになってしまった」というケース。一見すると無駄そうですが、これも立派な「材料」になっています。Yahoo!知恵袋の偉そうな「正論アドバイス」も然り。お金がかかっていようがいまいが、それらは「いち意見」でしかないのです。それらがインプットされて自分で導き出したものこそが「正解」でした。

たとえるならば、寸胴鍋で煮込み料理をつくるイメージです。寸胴鍋は私、材料は各所でもらった意見の数々。何ができあがるのかわからない闇鍋をぐるぐるかき混ぜ、ときに材料を追加投入し、ふとしたときに味見をしたらいい感じの料理になっていた、という具合。

こうして自分のことを振り返れば、他人の提言が問題解決に直結するなんて、ほぼありえないことだとすぐにわかります。悩んでいる人のことを本当に想っているなら、やるべきことは「闇鍋づくりのサポート」です。自分がシェフになってはいけないし、なれるはずがありません。使うか使わないかはシェフに任せて、ただ材料を渡すにとどめる。かき混ぜるのが退屈そうだから、話を聞いてストレス発散につきあう。その程度です。

「ネタバレ」で「先がわからない不安」をかき消してきた

ここまでわかっていても、反射的にドヤ顔で正論アドバイスをしたり、それになかなか従ってくれない相談主にイライラしたりしてしまうのは、私が「妖怪べきねば」から逃げ切れていないからに他なりません。奴がちらつかせてくる「正解するべき!」「答えを知るべき!」の先にある達成感の誘惑に負けているのです。アルコール中毒者やヘビースモーカーのことを他人だと割り切れないところがあります。

話がそれますが、ここで「ネタバレ」の感覚についてお話しさせてください。ご存じのとおり、物語や展開の顛末をばらしてしまうことを指す言葉です。多くの場合(とくにスポーツは)ネタバレにあたる発言をしようものなら、未鑑賞の人たちに叱られます。ときに「絶交する」レベルで怒りを買うこともあると聞きます(恐ろしい!)。

そんな忌まわしい存在「ネタバレ」は、私の大好物なのです。映画、ドラマ、アニメ、ゲーム、スポーツ、何に関してもネタバレが大好き。観はじめたドラマやアニメに原作があれば、その行方が記載されているWikipediaはほぼ確実に見ます。昔遊んでいたRPGのテレビゲームも、攻略本でストーリーを把握しておくのが常でした。先がわかっているからこそ登場人物に想いを馳せることもできたし、観たくないシーンに差し掛かったときに心を閉ざすこともできました。目は画面を観ているのに、頭がオフになっている状態です。

人々のわくわく感をかきたてる「ハラハラドキドキ」の感情、どうなるかわからない展開は、私にとっては「先がわからない不安」そのものです。

「未来」ではなく「これまで」に目を向ける

人生にネタバレもへったくれもありません。いつ、何が起こるかなんてわかりません。答えがわからなくて当然なのに、正解欲求がつのるなんて不毛です。

「先を知っておきたい」という気持ちを手放すよう努めるのが筋でしょうが、もう35年も、この感覚とともに生きてきました。受験や就職、仕事上の予期せぬ失敗、恋愛、そして天災……予想できなかったことにいくつも遭遇し、なんとかなってきているにもかかわらず、いまだに正解欲が衰えていないのです。これを手放し、正解か不正解かわからない「気持ちの悪い状況」を受け入れるのはそう簡単なことではありません。

ただ私はこの章を書きながら、妖怪べきねばへの対抗策を思いつきました。それは、相談主の「未来」ではなく「過去」に目を向けることです。悩んでいる現状にたどり着くまでに、どんな道筋をたどってきたのかをインタビューするのです。

ヒントはドキュメンタリー番組にあります。「情熱大陸」でも、「ザ・ノンフィクション」でも、「激レアさんを連れてきた。」でも、その番組に登場する人の生い立ちや想いを見聞きしているうちに、応援の気持ちが湧いていることはないでしょうか。これを適用するのです。

これまでは早押しクイズのように「正論アドバイス」を繰り広げてしまいましたが、もっとじっくりと、提案に向けて思いを巡らせるということです。そのうちに相手に感情移入するでしょう。相談主にしてみても、前述のたとえ話でいうなら「寸胴鍋をかき混ぜる」作業が進むのではないかと思います。

まだ思いついたばかりの対抗策なので、成果は未知数! 妖術「悩みは解決すべき!」にかかって苛まれているあなたとともに、その効果を確かめられたらうれしく思います。

まとめ

妖術「悩みは解決すべき!」にかかったら、まずは即答でのドヤ顔アドバイスをぐっと堪らえよう!相談主のヒストリーに目を向けることで、応援したい気持ちを育てれば、きっとよい提言ができるはず!

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