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求められる文化系と理科系の垣根を超えた人材育成

Sundar Pichai says ethicists and philosophers need to be involved in the development of AI to make sure it is moral and doesn’t do things like lie.

訳:サンダー・ピチャイ(Googleの最高経営責任者)は、AIの開発には偽りなく道徳的なアプローチを担保するために倫理学者や哲学者が関与することが必要だと語る(Business Insider より)

【解説】

21世紀にはいって、あと1年少々でその4分の1が経過しようとしています。
この24年間は、20世紀後半の「戦後」と呼ばれる大きな時代を総括しながら、新しい100年に向かう中で、世界が大きく揺れた時期でもありました。
今世紀初頭の同時多発テロにはじまって、世界各地での政情不安や、社会の分断が懸念されるなかで、地球の温暖化やAI技術の浸透による新たなライフスタイルの創造など、未来への希望と不安の双方が入り乱れた4分の1世紀であったともいえましょう。

この変化と技術革新のなかで、今日本も含め、世界の全ての地域で見直す必要があるテーマがあります。
それは、今後AIなどがさらに進化するときに、人の技術や思考力がどこまでAIにとってかわられるかという課題です。AIによってなくなる仕事の中に、税理士や弁護士といった、今までの社会の基盤となっていた分野の業務が含まれていることは巷でも耳にします。さらに、いわゆる将来を担うといわれるIT技術への人々の興味の傾斜から、人文科学系の業務が斜陽となっていることも、大学での人気科目の序列をみても明らかです。

ここで、近年Googleが哲学者を採用しているという事実に注目したいと思います。それは、AIが進化するときに、人の意識や思考をどのようにAIにインプットするかというテーマと共に、どこまでAIが人類の生活に影響を与えることを許容するべきかという我々の未来に直結する課題に、哲学者や文学者といった専門家のアプローチがどうしても必要になるからです。
20世紀後半には映画「ターミネータ」や「2001年宇宙の旅」が話題となり、人工頭脳やロボットが人類に脅威を与える近未来の様子が描かれました。こうした映画の中の課題を、我々は今本気で考える時代に来つつあるわけです。
そんな時代にありながら、今でも受験にあたり、文化系とか理科系というカテゴリーで人を振り分けていること自体、我々の未来を考えたときに大きな誤りといえるのです。

この時に忘れてはならないことがあります。それは、AIをはじめとした様々な技術が進歩したときに、逆に人類の技術や文化の中で消滅する分野が生まれるということです。人類は文明の進歩と共に、過去の文明を失ってきたのです。
例えば、江戸時代に鎖国となったために、それまで海洋国家として育まれてきた造船技術が退化したことは有名な話です。明治以降産業革命によって生活が改善されてゆくなかで、機械に頼った分だけ手工業を担う上での様々な技術が失われたことも忘れてはなりません。
長期的な視野に立てば、その変化と共に、人類の体の構造や、筋肉や五感など、様々な機能にも進化と退化が同時に起こっているはずです。例えば、自動車業界で、電動化のためにエンジンが不要になると、ピストンや点火プラグなどに関わる微細技術も忘れ去られてしまいます。この変化によって、不要となった思考の蓄積にも歯止めがかかってしまうのです。

では21世紀にはどのような文明が失われるのでしょうか。最も危惧されることは、生成AIの進歩などで文字を書くこと、文章を構成すること、さらにはリサーチをすることといった、人類が数千年にわたって培ってきた基幹ともいえるノウハウに大きな影響がでてくるように思えることです。
ということは、今世紀は人類にとって極めてリスクのあるターニングポイントにあたる100年であるといっても過言ではないはずです。ですから、Googleは哲学者に助言を求めたのです。
今、大学をみると、ほんの数十年前までは人気科目であった、フランス文学やドイツ文学、さらにはGoogleが求めた哲学や倫理学の分野への応募者が激減しているという事実を突きつけられます。
将来、AIがさらに進化すれば、ワインのテイスティングやシェフの匙加減、あるいはピアニストの繊細な鍵盤へのタッチといった、人類が人類であることの定義となる感性や思考までもが退化するのではと思われます。

SNSの進歩で、若い世代が短文でのメッセージのやり取りに慣れてしまい、長文を読解したり、書籍を読んで意見を交換したりという習慣が劣化していることに悩む年長者のはなしをよく聞きます。
その影響がSNSなどで拡散するポピュリズムの扇動によって世間が分断されてしまうという社会現象の背景となっていると指摘する人も多くいます。人が自分の好むコンテンツのみを求めることで、自らの意見に対立する別の発想に触れる機会が少なくなっているのは確かに事実でしょう。
ジェネレーションギャップによる人々の「ぼやき」はいつの時代でも散見されることですが、確かに21世紀が人類の長年にわたる習慣そのものにチャレンジをしている世紀であることだけは事実のようです。
そんな21世紀に突入して、すでに4分の1が経過しようとしているのです。

資本主義が世界の常識となって数世紀が経過しました。
資本主義は利益を追求することは良いことだという発想に支えられています。この考え方が、市民革命をおこし、アメリカを独立させ、さらに産業革命へとつながりました。その延長が20世紀の文明の発展だったのです。しかし、この発展の底流には、常に人間が進化の鍵を握っているという安心感があったのです。しかし、利益の追求が技術革新の速度を加速させたとき、その安心感に疑問符が投げかけられたのです。
3000年にわたって人類は牛馬による移動に頼っていました。しかし、20世紀になってヘンリー・フォードがT型フォードの大量生産によってモータリゼーションを引き起こして、ほんの100年しか経過していないなか、すでに人類は世界中を24時間以内に移動し、スマホで自動車を配車できるまでに進化しました。30倍の速度で文明が進化しているかのように思えるのは誇張ではないかもしれません。
その進化の加速に利益を追求することを是とする人類の常識と欲望が混在したときに、その行く末への不安が我々に多くの問いかけをしているのです。このままで大丈夫なのかと。
気候変動や社会の分断もこうした進化の加速のたまものかもしれません。利益の追求の自由は、民主主義を生み出す原動力です。我々は、今民主主義は失いたくないものの、利益の追求のみに頼れるのかという矛盾に晒されているのです。
このジレンマを解決する新たな制度を人類の知恵で生み出せるのかは、21世紀の残りの3分の1に課せられた最も大きな課題なのです。そのためにも、まずは文化系と理科系という垣根を取り払い、人間学を追求できる人材育成制度が国家レベルで求められるのではないでしょうか。

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