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中東問題の複雑な『本質』が霧の向こうへ

【海外ニュース】

Iraqi Forces Enter Falluja, Encountering Little Fight From ISIS

訳:イラク軍がファルージャに侵攻、ISISの抵抗にはほとんど遭わず

(NY Times より)

【ニュース解説】

アメリカのイラク侵攻が起きるはるか昔のことです。

私の友人シャリフ・マシャーリは大学に入ったばかりでした。

彼はイラクの出身で、当時インドに留学していました。

ある日、彼の友人の一人にオベロイホテルの創業者の友人がいたことから、ムンバイのオベロイホテルにあるレストランで友人と夕食会をしていたときのことです。

ウエイターもウエイトレスも、オウナーの息子の友人ということで、いたれりつくせりのもてなしでした。

そんな彼のテーブルの向こうに、イラク人の一団がいました。

その中の一人がシャリフのところにやってきて、君はイラク人だね。

バース党の党員なのかと問いかけます。

バース党はサダム・フセインの母体となる党で、シャリフの前に立っていた人物は、ムハマンド・サイード・アル・サハッフ。

当時のイラクの駐インド大使でした。

大使である自分を差し置いたホテル側のシャリフへの待遇の良さに、アル・サハッフは明らかに気分を害していたのです。

翌日、シャリフは大使館に呼ばれ、再び大使に面会し、尋問を受け、身分を確認されました。

1974年のことでした。

その後、シャリフはアメリカに留学し、そのままカリフォルニアに移住します。

留学生への保険のセールスなど、様々なビジネスを手がけ、イラク系アメリカ人として成功します。

2001年の冬のある日のこと、ロサンゼルスでイラクの外務大臣を招いた大きなレセプションがありました。

シャリフは留学関係の仕事についていたこともあって、そのレセプションに参加します。

そこでシャリフは、アル・サッハフに再会します。

彼が外務大臣だったのです。

1990年にイラクがクエートへ侵攻したことからはじまる湾岸戦争後の困難な状況を打開することがアル・サッハフのミッションでした。

当時のイラクは、アメリカなどの戦勝国によって飛行禁止区域が設けられ、国連の査察や禁輸措置など様々な圧力を受けていました。

それを、他の中東諸国とのパワーバランスなどを利用してどうかわしてゆくか。

彼に課せられた責任は重大でした。

アル・サッハフは、シャリフ・マシャーリのことを覚えていました。

彼は再びシャリフにアプローチし、耳打ちをします。

「アメリカに亡命したい」と。

シャリフは極秘に彼と連絡をとり、FBIと連携して、亡命を希望する大臣のためにアメリカでの大学の職を用意します。

しかし、亡命の環境が整ったとき、アル・サッハフは行方をくらまし、その後バグダッドで情報相となっていたことが判明したのでした。

その後、彼は欧米のメディアから「バグダッド・ボブ」などとあだ名され、イラク戦争中の情報相として対米の強硬な発言などが世界に報道されました。

その発言は、パレスチナ問題などで反米感情を抱く中東の人々に強く支持されたといわれています。

2003年4月8日にアメリカ軍がバグダッドに侵攻、彼は最後まで情報相としてアメリカの非難を続けました。

戦後、彼はやつれきった姿で占領軍に確保され、アブダビが身柄を引き受けます。

サダム・フセインをはじめとした他の高官とは異なる特別なはからいで、ムハマンド・サイード・アル・サハッフは今でも家族とアブダビで静かに暮らしているのです。

しかし、アル・サッハフが亡命を希望し、FBIと接触していた事実が何を語っていたのかは、未だにベールに覆われたままです。

そもそもその事実自体が公にはなっていません。

彼がなぜ他の高官のように訴追されなかったかという事実と照合させ、そこに何があったのかを推測しました。

しかし、シャリフも誰も、アル・サッハフとサダム・フセイン、そしてアメリカという三つの点を結ぶ糸の縺れの背景にたどり着くことはできませんでした。

ちなみに、彼はスンニ派の強いルーツを持つ当時のフセイン政権にあって、ただ一人シーア派の高官であったこと、そして英語を自由に操り、日本にも知古が多くいたことで知られています。

コロラドのロッキー山脈の山辺にVailという避暑地があります。

シャリフはそこにある別荘で、夕食後の葉巻を楽しみながら、私にそんな話をしてくれました。

彼の一族は今レバノンとアメリカに暮らしています。

今、イラクではファルージャなどで、イラク軍がISISに対して攻勢にでています。

オーランドでのナイトクラブ襲撃事件が、イスラム教過激派の犯行とわかり、世論のイスラム系移民への風当たりはアメリカでもヨーロッパでも厳しいものです。

しかし、ここまで縺れてしまった中東情勢と、歴史に翻弄される人々の心の傷はそう簡単に癒せるものではありません。

中東でおきた数え切れない紛争と、その代表としてのイラク戦争の是非を冷静に再考することすら、今では困難です。

中東の複雑な「背景」の向こうにある真実が、その後積み重なる事件の中で、時という霧の向こうにかすみつつあるのです。

そして、この中東の複雑な情勢と人間模様がそのままアメリカや西欧の社会にも移植されているのだということが、私の友人を見舞ったこの物語からもあぶり出されてくるのです。

2016.6.21

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