秘密のキーマカレー

今日は朝から妻と口論になってしまった。まあ口論というよりかは、一方的に私が文句を言っていたという言い方の方が適切であろう。理由は、妻が珍しく寝坊してしまったことで私の朝のリズムが乱されたことだ。今から考えると、おおむね私が悪かった。なにせ彼女は昨夜遅くまで息子の運動会の衣装づくりに励んでいたのだから、寝坊しても致し方あるまい。しかし今朝の私はどうにも虫の居所が悪かったらしい。「何もここまで言う必要はないかもしれない。」と悟ったときには、もう引くに引けない状態にあったから最後まで押し通してしまった。

私のこういう態度は親父譲りである。私の親父は昔の人であるから、もうそれは大変な亭主関白な男だった。そんな親父と約60年やってきたお袋はとんでもない忍耐力の持ち主であると思う。私は絶対に親父のような夫にはなりたくないと思っていたが、日に日に妻に対する態度が、父親のお袋に対するそれと類似しているのを感じ、「やはり血は争えない」と思う次第なのである。

妻もかつては、私に反撃したり、はたまた涙を流したりしてきたものだが、最近はおとなしく引き下がることが多い。彼女に負担がかかっていることは容易に想像がつく。このままでは彼女もお袋のように、いつかぽっくり死んでしまうかもしれない。
私は妻にメールを送ってみることにした。もう怒っていないぞ、という意思を伝えたかった。

「今日のご飯何?」

謝るまでのことは出来なかったがまあこれでいいだろう。数分後に返信が来た。

「今日はキーマカレーよ♪」

よかった。文面から察するに、妻もそこまで引きずっていないようである。キーマカレーは妻の得意料理であり、死んだお袋が妻に伝授したものだ。

合いびき肉を細かく切った野菜と共に煮込み、真ん中には卵黄がのせられていた。未だにあの味を超えるカレーはないと思っている。それほどに美味いのだ。いつもキッチンでピーマンと玉ねぎと人参をみじん切りにするお袋の姿は、今でも自然に思い浮かべることが出来る。また、私の家のカレーといえば幼少期から「キーマカレー」が定番であったが、他の家ではそうではないらしい。そこまで頻出しない理由を女子社員に聞いたところ理由は、「みじん切りがめんどくさいから。」だという。確かにそれも一理あるかもしれないが、私はこれまで一度もお袋や妻がみじん切りについて愚痴をこぼす姿を見たことはなかった。

私は帰りに百均によって帰った。お目当てはみじん切りの効率を上げるための調理器具であった。今朝の罪滅ぼしも兼ねているつもりだった。私がこれを差し出すと、妻が言った。

「ありがとう。でもこれは申し訳ないけど使わないわ。」

「どうしてだ。手を抜くことも必要だろう。」

「みじん切りが面倒なんて思ったことはないわ。むしろ細かくするほど日常のストレスがなくなるのよ。お義母さんに教えていただいたの。」

そういうと彼女は「いけない。これは秘密だったわ。」と言ってスープをよそった。目の前には美しいキーマカレーがあった。それからは私が何を聞いても教えてくれなかった。

ここからは私の推測だが、おそらくお袋にとって、ストレスのかかる毎日の唯一のはけ口は日々のみじん切りだったのだろう。それを親父が美味そうに食べているのを見て、内心ほくそえんでいたに違いない。そしてそれは妻も同じで、彼女がキーマカレーを作るようになってからは言い争いの回数がぐっと減った。


私はスプーンでキーマカレーをすくい上げた。今日は一段と野菜が細かくみじん切りにされていた気がした。私はそれを大口で頬張った。

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