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個人的美意識

まずは周りの人に、次第により多くの人に、美しい心の動きやモノ、体験を与えていく。これに尽きると思うし、その小さな積み重ねに他人を巻き込み、少しずつ世界をよくしていることを信じることを、たまたまこの文章を読んでくださっている皆さまと続けていきたい。

こんな綺麗事を口にするには、まだまだ心が汚いし、行動も伴ってはいない私だが、綺麗事が好きだったのは物心ついた時からだった。

小学生時代から、周りの大人や友達、家族に対して、卑劣にも対応の仕方を変え、八方美人に振る舞ったり、周囲の顔色を伺い、言うべきことを声帯に乗せる勇気もなかったりするような人間でした。氷山の海側として当たり前のように無意識下にあったその行動様式は、改めて掘り返しても今の自分にも同じ根を張っている。

本当に自分がなかったからなのか、自分という軸を感じられなかったからなのかは今でも模索しているが、12年間ぐらいは感覚に悩まされていて、ここ最近はそれが顕著になってきている。

そんな中でも集団で生活を共にする人間なので、自分がないながらに、いや、自分がなかったからこそ、「人にはいいことをしよう」「人に対して気を遣おう」「気がきく人間でいよう」「気を配っていこう」「優しくいよう」「穏やかでいよう」、あらゆる綺麗事、美辞麗句を空っぽな自分という器に詰めるだけ詰め込んで、その器を引っ提げて日々行動をしようと少しは心がけてきた。

そんなもんだから美しい言葉だけでなく、美しい自然や美しい体験は自分の心を大いに満たしてくれた。結果として、現在やっているテイラーのお仕事もその美しさへの憧れ(個人的にはイデアみたいなニュアンス)の一つの具体だと思えてとても楽しい。

逆にいってしまうと、このスーツがなかったとしたら、その世界線に生きている自分の目の色を見てみたくなる。色彩がなくなって、明暗という一つの変数で表されていて、どうせ美しくないのだろう。

古代ギリシャから始まりカントで一旦幕が終わったように思える真善美の考え方は、全てをバランスよく高めることが必要であり、かつ、どれか一つが高まっていくと残りの二つも高まっていくと考えている。

私の地元と友人も、高校の友人も、大学の友人も、東京で出会った友人もそれぞれの人生がやっぱり興味深いし、それぞれに道を歩み出しているのだけれど、みんな私と同じように綺麗事が好きなように感じるし、嫌いな人はいない様子だ。

だったらみんなでやれば一番美しいと思う。私の場合はまずはスーツや洋装なだけで。



今回もお読みいただきありがとうございました。
山木でした!

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