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「National Outdoor Book Award」受賞。ピュリツァー賞ファイナリストが描く67歳のおばあちゃん感動の実話。『グランマ・ゲイトウッドのロングトレイル』第7章全文公開

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『グランマ・ゲイトウッドのロングトレイル』(四六判・368P 定価2400円+税)2021年11月17日発売

アメリカにはロングトレイルと呼ばれる長距離ハイキングルートがあります。そのひとつ、アパラチアン・トレイルは総距離3500kmにおよび、歩き通すのに約6ヶ月を要します。

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アパラチアントレイル全図

この長いハイキングに挑戦するハイカーは年間数百人に上りますが、彼らの憧れになっている人物こそがエマ・ゲイトウッド、通称グランマ・ゲイトウッドです。

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アパラチアントレイル踏破中のエマ・ゲイトウッド

1955年、女性として初めてアパラチアン・トレイルをスルーハイク(一気に踏破すること)したとき、彼女は67歳という年齢でした。DV夫、11人の子ども、23人の孫と離れ、テントも寝袋も持たずに歩き通した偉業でした。

彼女が出発して約2ヶ月。トレイルを見失うところから第7章ははじまります。

女放浪者(レディー・トランプ)

1955年7月6日~15日

 トレイルが見つからなかった。
 トレイルはハーパーズ・フェリーを通ると聞いたので、メリーランド州サンディ・フックから出てそのまま道を歩き、ポトマック川を横切る鉄道の橋を渡って町に入ったのだ。聖ピーター・カトリック教会の近くの電信柱に古い目印(ブレイズ)があったが、トレイルは見つからなかった。標識を探して崖の上まで行ってみたものの、夕方にはサンディ・フックに戻ってきた。そこにいた人が、トレイルのルートが変わったのだと教えてくれて、エマは別の方角へと歩き出した。チェサピーク川とオハイオ運河に沿って、3キロほど離れたウェヴァートンに着いた時には夜になっていた。
 翌日は、1827年にジョージ・ワシントンの最初の記念碑が建てられた、ワシントン・モニュメント州立公園を通り抜けた。夕方になってからエマはそこで消防監督官に出会い、彼の自宅のリビング・ルームにある簡易寝台に泊めてもらうことができた。彼はブーンズボロにある新聞社に電話をかけてエマを電話に出したので、彼女は答えるつもりのなかった質問に答える羽目に陥った。17日間でこれで3回目だった。迷惑ということではないが、一体何を騒いでいるのか彼女にはよく理解できなかったのだ。
 翌日、エマがペン・マー公園を抜けてメイソン・ディクソン・ライン〔メリーランド州とペンシルゔぇニア州の州境で、南部と北部の境界〕に向けて歩いている時、 AP通信からの短い特報が輪転機で新聞に印刷され、束にされて牛乳配達用のケージやカバンの中に入れられ、新聞配達の少年少女らの自転車に載せられて、国中の何百、何千もの家々の前庭やポーチへと放り込まれていた。そしてエマがその夜リーン・トゥに腰を落ち着けた頃、全米津々浦々のアメリカ人たちは、縁もゆかりもない人間の、長く孤独な、信じられないような徒歩の旅についての詳細を読んでいたのだ。

 メリーランド州ブーンズボロ、7月8日(AP通信)
  66日間、1600キロを歩いてきて、アパラチアン・トレイル3300キロを単独で踏破する最初の女性になるというエマ・ゲイトウッド夫人の固い決意に変わりはなかった。しかも67歳という年齢だ。
  オハイオ州ガリポリス出身で、11人の子の母であり、23人の孫がいるおばあちゃんであるこの女性は、昨日近隣のワシントン・モニュメント州立公園で小休止した際、その点を強調した。この調子ならばグランマ・エマは、メイン州のカタディン山に9月中には到着するだろう。彼女はスタート地点であるジョージア州のオグルソープ山を5月3日に出発している。
  16キロ近くの袋を担ぎ、寝袋で眠るか途中のリーン・トゥのシェルターで夜を過ごしてきた。靴は2足履き潰したが、情熱はさめることがなかった。
  「アウトドアが大好きなのよ」と彼女は語った。

 記事はおおよそ正しかった。ただ、荷物は16キロもの重さはなかったし、寝袋は持っていなかった。そしてこの調子でうまくいくなら、カタディン山に9月までには着くことができるだろうと思われた。歩き通すことができたならばの話だが。トレイルの一番の難所はこれからだった。彼女の名は知れ渡ってきて、ますます多くの人々が彼女を引き止めて話をしたがった。しかも天候は予測できなかった。​

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 北西部では、1955年の夏はここ数年で一番寒く、じめじめした夏になろうとしていた。畑の干し草にはカビが生え、イチゴは大きくならなかった。だが、シカゴでは大火のあった1871年以来の記録の中で一番暑い7月になろうとしていた。北東部の大部分は干ばつに苦しめられていた。ニューヨークは連邦政府に対し、干ばつの被害に対する援助を訴えていた。一方、テキサスではあまりに雨が多く、農民たちは砂嵐(ダストボウル)〔1930年代にアメリカ中西部で断続的に発生した砂嵐〕からの復興について話すことなどやめてしまった。さらに不思議なのは、めったにない冬の嵐が起こったことだった。大晦日に発生した嵐は、1月1日にはハリケーン・アリスへと発達し、数日後に消滅した。プエルト・リコの歴史学者たちは、これは史上初の冬の嵐にあたるのではないかと議論した。1816年に似たような嵐があったことは記録されていたが、その発生が9月だったか1月だったかを判断できなかった。いずれにしても、この嵐は気象学者たちを困惑させていた。「ことによるとこれは、ここ数十年の間観測されてきた全般的な温暖化が一因かもしれません」と国立気象局の気象学者は書いている。
 その年の暮れまでに、気象局は熱帯低気圧を13回記録した。そのうち10回はハリケーンの強さとなり、過去にそれだけの回数を上回ったのは一度だけだった。55年のハリケーン・シーズンは「史上最も甚大な災害をもたらし」「その被害は過去のすべての記録を上回った」と述べられた。エマ・ゲイトウッドが何も知らずにメリーランド州を北へ向かって歩いていた7月の現象について、気象学者たちは次のような仮説を立てた。北大西洋で発生した大気波が熱帯低気圧のように発達し、アゾレス諸島にあった気圧の尾根で、上層の高気圧性循環が北東方向へとヨーロッパの方に強く張り出して北東への気流を起こした。その渦度(うずど)フラックスによってスペインとアフリカの海岸に沿って異常なほど急激で深い気圧の谷がつくり出された、というのだ。そしてこの気圧の谷の底で、北からの低気圧性渦が入り込み垂直方向の不安定な空気と結合して、もうひとつの嵐が生まれたのだと学者たちは書いた。
 エマ・ゲイトウッドは、こうしたことは何ひとつ知らなかった。木々、花々、動物たちと風雨や日射などの自然の力が、孤立した彼女の世界だった。その夜、彼女はトレイル脇のリーン・トゥで眠りに落ちていった。
 3人の若者が真夜中頃に、シェルターに泊まろうとやってきたが、中に年配の女性がいるのがわかると、引き返して去ろうとした。エマは呼び寄せて、スペースはたっぷりあるから、ここで寝ても一向に構わないと伝えた。翌朝、若者たちが寝ている間に彼女は出発し、よいペースで進んで州境を越え、ペンシルヴェニア州に入った。そこはカレドニア州立公園に近く、ブルー山とサウス山の間にある谷間で、タデウス・スティーブンス〔同州選出の下院議員〕の所有になったこともある土地だった。これから370キロはペンシルヴェニア州を通ることになる。エマは服を洗濯して焚き火で乾かし、再び歩き始めるまでの間眠った。
 チンカピン・ヒルの南側の急斜面を登っている時、何か不自然な物音が聞こえてきた。振り向いてみると、後ろからハアハア言いながら登ってくる男性が目に入った。髪の毛が目にかかり、登りに苦労していたが、どうやらエマに追いつこうとしているらしい。記者だろうと思い、エマは立ち止まった。
 その男性はウォーレン・ラージと名乗った。彼はバード・ウォッチャーで、エマのことを新聞で読み、その朝彼女に会おうと出発したということだった。時間は取らせないから、少しだけ質問させてほしいと彼は言った。二つか三つだ、と。2人はペンシルヴェニアの森の中で丸太に座って話し始めた。2時間後、もう行かねば、と彼は言った。エマにさよなら、幸運を祈ると言ってから、また座り直して2人でさらに1時間話すことになった。1955年7月10日、ウォーレン・ラージは教会と日曜学校に行きそびれ、エマ・ゲイトウッドはその日はもう歩くのはやめにした。
 ミショーでマイゼンハルター夫人からよいレタスをもらい、パイン・グローブ・ファーネスでは食料が手に入った。そこはようやく到達したトレイルの中間地点で、独立戦争の時に武器が製造された木炭火力の高炉があったためにファーネス〔溶鉱炉〕と呼ばれている。エマがオハイオから来たボーイ・スカウトの一団のリーダーと話をしていた時、森林管理人がエマを電話口に呼んだ。相手は州立公園の管理責任者だった。彼はボルチモアのラジオと新聞のレポーターであるコンウェイ・ロビンソンとの面会を取り付けたがっていた。エマのニュースがついに大都会の新聞に掲載されるのだ。ロビンソンはペンシルヴェニア州ブランツヴィルでエマと会いたいと言ったので、翌朝早く、6時前にエマは出発した。だが脇道で迷ってしまい、ようやくトレイルに戻れた時にはもう午後になろうとしていて、まだあと何キロも行かなければならなかった。この区間は特に岩場続きで、どっちを向いても岩また岩だった。ブランツヴィルに着いた時にはもう夕方の5時になっていた。ロビンソンは午後中ずっと待っていて、日が落ちる前に彼女を再び森に連れて行ってエマが歩いている写真と映像を撮った。満足できるまで撮影すると、エマの声を録音した。お礼にロビンソンは夕食をごちそうしてくれた。


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 彼女は〔西海岸の〕パシフィック・コースト・ハイウェイを横切って、生まれて初めて見る海の砂浜を歩いた。よそゆきの靴を履き、長袖の麻のドレスを着て、白い花を横に付けた麦わら帽子をかぶっていた。カリフォルニアの風が塩水と砂を肌に吹きつけた。全身を覆う水着に身を包んだ男の子たちが、波の中で水をはねかせていた。1937年のことだ。

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初めての海。シール・ビーチとハンティントン・ビーチの間で(ルーシー・ゲイトウッド・シーズ提供)

 エマは海を見つめ、そのシンプルな美しさをじっくりと眺めた。家からこんなにも遠く離れた場所で、娘たちのことが気にかかった。
 エマは西部へ逃れてきていた。彼女の家族のほとんどが何年も前にたどった旅路と同じだった。エマの母と弟はカリフォルニアにいたし、妹はサンタアナに家があり、そこには予備のベッドもあった。ガリア郡でのゴタゴタが落ち着くまで居候しても構わないと言ってもらっていた。エマは久しぶりに会う家族の近況を聞けることを喜び、母は苦労して家に戻ってきた娘を温かく迎えてくれた。だが、子どもたちを残してきた悲しみは、エマをやるせない思いにさせた。子どもたちを呼び寄せて養うだけの余力はないし、エマに対するような扱いをP・C(※P・C・ゲイトウッド。エマの夫)が子どもたちにすることはないとわかっていた。以前にも一度ひどく殴られた後に、まだ幼かったルイーズを連れてカリフォルニアに移ったことがあったが、一時のことだった。エマはそこに1年近くいたが、P・Cがこれからは変わると約束したのでオハイオに戻ったのだ。だが今回は違った。はたして戻ることがあるのか彼女には確信が持てなかった。
 子どもたちを後に残していくことについては、罪悪感にさいなまれた。だが他にどんな手立てがあったろうか? P・Cは決定的に彼女に暴行をしたのであり、彼を遠ざけられるだけの力がないならば、エマに残された手段は家を出て西へと向かうことだけだった。
 1937年11月18日、エマは娘たちに手紙を書き、2枚綴りの紙を封筒に入れて投函した。差出人住所は書かなかった。

愛するルイーズとルーシーへ
 ずっとあなたたちに手紙を書きたかったのだけど、お父さんに居場所を知らせたくなかったのです。あの人のことは最悪の悪夢でした。あの人が私を放っておいてくれることを神さまに願います。彼にはそばにいてほしくないので、もうあきらめてくれればよいのにと思っています。昨日は大きな菊の花束を送ってきたけれど、見たくないのですぐに墓地に行っておじいちゃんとマータのお墓にお供えしてきました。
 新しいドレスや靴やコートをもらえていることと思います。あの人がいる限り戻ることは考えられないし、私につきまとっても無駄なことなのです。あなたたちのことや、あなたたちにしてあげられただろうこと、してあげたいことなどは、できるだけ考えないようにしています。ただ事態が変わって、いつかいっしょに過ごせるようになることを願って日々を過ごすばかりです。忍耐強く、よい子でいてください。そうすればお父さんのようにみじめな思いはしなくてもすむでしょうから。ひどい言葉を投げつけられても、もしあの人が余計な手出しさえしなければ、あなたたちとまだいっしょにいられたのに。でも、もうすべて過ぎてしまったことです。とても残念だけど、もう遅すぎます。これ以上私を困らせるならどこか外国へ行きます。そうすればもう私を困らせるようなことはしないでしょう。もう二度とあの顔を見たくありません。あの人の暴力には十分に苦しんできたので、今後100年間はご免です。
 いつの日かまたいっしょになれることを願いながら、
 たくさんの愛とともに、あなたたちのママより


 娘たちはガリア郡の家でこの手紙を読んだ。2人は9歳と11歳で、その手紙に込められた痛みは十分に理解することができた。2人は父親の手先にも使われて、父の命令で、どんなに母がいなくて寂しいか、どんなに会いたいか、そしてどうか、お願いだから戻ってきて、と書かされた。これは下手な芝居だとその時の2人にさえわかってはいたが、父に協力した。そして手紙のやりとりは続いた。


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 道路は平らで何も生えておらず、アスファルトの2本の帯が目の前に続いていて、まるで終わりがないように思えた。足が痛んだ。一日中ハイウェイを歩き、アメリカで最初の有料道路で、東はデラウェア川から西はエマの故郷のオハイオ州まで延びる新しいペンシルヴェニア・ターンパイクも歩いて越えた。夕方5時半頃になって、一軒の家が見えたので、許可も得ずにエマはフロント・ポーチまで歩いて行って、どすんと腰を下ろした。中にいたマッカリスター家の人たちは、窓からこのみすぼらしい闖入者を眺めていた。頭のおかしな老人と思われたようだったが、エマはそれを否定しようとはしなかった。疲れすぎていたのだ。しまいに家の人たちから素性を尋ねられると、彼女は自分のしていることを話した。するとマッカリスター家の人々は少し好意的になって、夕食に招いてくれた。食べ終わると、一家は泊まっていかないかとエマに言った。
 翌日は午前中いっぱいかかって、ゴツゴツした鋭い岩々を越えていった。これは最終氷期の氷河が後退する際に南側に残していった地形である。このセクションはトレイルの中でも一番岩が多いところで、ひとつひとつの岩がまるでわざとへりに置かれているかのようだった。エマには新しい靴がどうしても必要だった。履いていた靴は、足のこぶに当たらないように横の部分を切り取って履き心地をよくしていたが、歩き続けているうちに足がむくんでしまったのだ。
 11時を少し過ぎた頃、ペンシルヴェニア州ダンカノンの町外れにやってきた。エマはバーミューダ・ショーツをはいていたが、ダンガリーの長ズボンにはき替えるべきか考えた時には、もうすでに町に入っていた。フロント・ポーチで子どもたちの集団が遊んでいたが、彼女が道路を歩いてくるのを見て一人の男の子が遊び仲間に向かって叫んだ。
「見て!女放浪者(レディー・トランプ)だ!」
 エマは歩き続けた。あざけりの対象として指さされたことは、これが最初でも最後でもなく、それにひるむことはなかった。数分後、女放浪者は広大なサスケハナ川を渡り、渡り終わった橋のところにあった小さなレストランに立ち寄った。そこでトマト・サンドイッチを注文し、さらにバナナ・スプリットも頼んで気分を盛り上げた。
 夕食の後、水を探しに出た。午後9時になっても、水は見つからなかった。布袋の中から懐中電灯を探り出して、道路脇に立ってそれを振り、車が停まってくれることを願った。やっと停まってくれた一台には女性2人と彼女らの子どもたちが乗っていて、エマは泊まるところ、または水だけでも得られるところを探しているのだと話した。彼女がぎゅう詰めになって乗り込むと、車はそこから24キロ走って一軒の家の前で停まった。そこがエマのその晩の宿となった。翌朝、家主はエマを車でトレイルまで送ってくれた。
 足がずきずき痛むことを除けば、ペンシルヴェニア州東部──当時トレイルはフィラデルフィアから約160キロ西にあった──のハイクは易しかった。難題は泊まる場所を見つけることだった。7月15日、エマは24キロ歩いてから一軒の大きな家に寄って、空いている部屋はないか尋ねた。家の中で女性が家事をしているのが見えたが、戸口に出てきたその女性は関節炎がひどくて泊めることはできないと言った。その次に訪ねた家では、家主が出てきて、余分なベッドも部屋もないとにべもなかった。立て続けに8軒の家を訪ねたが、どの家でも断られた。
  次に訪ねたのは少し小さめの家で、ぽっちゃりしたブロンドの髪の女性が戸口に出た。余分な寝床はないと言ったが、子どもたちを離れにやって、そこにエマのために簡易寝台を用意してくれた。もしよかったら、フロント・ポーチのブランコの方がいいのだが、とエマは言い、暑い夏の一夜をそこで眠った。女性は夜の間にエマの服を洗濯しておいてくれた。 


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