ワビスキジョージュー

30歳の頃に俳句を詠み始め、今年で9年目になる。ただ、初めの1~2年はそもそも俳句という文芸がどういうものであるのかを勘違いしていたり、3~5年目は生活の状況からあまり熱心に俳句に打ち込めなかったりして(コロナ禍もあったし)、この句作歴のうちの半分ほどは無為に過ごしてきてしまったように思う。実力と知見が、句歴の数値にとんと見合っていない。

ここ2~3年でようやく俳句の世界というものが見えてきて(それでもまだ「見えてきて」である)、句会でも主宰の面々にそれなりに点をいただけるような句を詠めるようになってきた。そうなれたのは、積極的に句集や俳誌を読むようになったからだ。

ただ、それでもまだ学びが全然足りないとも思っている。私と同年代、あるいは年下であっても、俳壇において目覚ましい活躍をされている俳人が山ほどいる。その方たちと同じように俳壇に出たい、などとおこがましくも望むわけではないのだが、そういう方々の鍛錬や実践に比べれば、私のやっていることは明らかにアマチュアレベルなのだろうと思う。それぞれの峻山に孤高に挑み、その冒険の末に高い句境にたどり着いている俳人たちからすれば、私の道などはちょっとした里山のピクニックである。この状態を脱したい。

「多読多作」、これが決定的に私に足りない。これが所以で私の俳句がピクニックにしかならないのだと自覚している。

井上靖が千利休の死をめぐって書いた『本覚坊遺文』の中に「侘数寄常住 茶之湯肝要」という言葉が出てくる。

利休どのからいただいたもので、この二つは形あるものだが、他にもう一つ、形のないものを拝領している。”侘数寄常住”という言葉である。お亡くなりになる前年、茶の湯の秘伝についてお訊ねしたことがあった。その時、利休どのは、茶の秘伝などというもののあろう筈はないが、どうしても秘伝に執心するというのであれば、さしずめ”侘数寄常住 茶之湯肝要”とでも答えるほかあるまい。先年、昵懇の茶の湯執心の知人への書面に、この十文字を認めて送ったことがある。このようなことを利休どのは言われた。

『本覚坊遺文』、井上靖、講談社文芸文庫、21頁

千利休の弟子であった主人公の本覚坊が、利休の死後、その生前に縁のあった者たちと再会しつつ、利休のたどりついた茶の湯の境地や、その死をめぐる太閤秀吉との関係について思いをめぐらせるという内容の本作。それがすべて本覚坊の残した手記に書かれており、作者井上はそれを公開しているだけという体裁をとる、ユニークな小説だ。

引用したのは、本覚坊が東陽坊と数年来の再会を果たし、積もる話を語り合っている場面(を本覚坊が後で振り返り、東陽坊の言として手記に書き残したもの)である。
ここで語られる「侘数寄常住 茶之湯肝要」という言葉が本当に千利休の言ったものなのか、それとも井上の創作なのか私は覚えが無いのだけれど、この言葉は、本作を私が初めて読んだ高校生の頃から、強く印象に残っている。

そして、「多作多読」と聞くと、私はこの言葉を連想するのである。「多作多読」とは、この言葉で叙される精神とそっくり同じものなのではないか。そう思うのだ。

侘数寄常住、つまり茶の心は四六時中、寝ても覚めても心から放してはいけない。茶之湯肝要、茶を点てることもまた大切である。こういう意味であろうかと思う。

東陽坊はそう語る。「侘数寄常住」の解釈については、「茶」を「俳句」に置き換えても成り立つし、「茶之湯肝要」の方は俳句の多作になぞらえることができるだろう。

ここまで余計に弁を弄してしまったけれど、私に必要なことはこの「侘数寄常住 茶之湯肝要」の心だと思う次第である。

今更ながら、こうしてnoteを書き始めてみたのは、これが「侘数寄常住」の方を充足させる手立てになるのではないかと考えたからだ。今後、もっと本腰をいれて句集、俳誌、俳論を摂取していき、得たことをここで多様にアウトプットしていくことによって、私の中での「侘数寄常住」を強化させていきたいと考えるのである。


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