愛がそれを望むまでは:聖書をめぐる旅 3/26
3/26(土)
ヨブの叫びの中に、自分の言葉を碑文に刻んでほしいという願いがあります。雅歌では、愛にまつわる、気になる表現がありました。
ヨブ記19章
23どうか
わたしの言葉が書き留められるように
碑文として刻まれるように。
24たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され
いつまでも残るように。
25わたしは知っている
わたしを贖う方は生きておられ
ついには塵の上に立たれるであろう。
26この皮膚が損なわれようとも
この身をもって
わたしは神を仰ぎ見るであろう。
27このわたしが仰ぎ見る
ほかならぬこの目で見る。
ヨブの言葉の中に、希望の言葉を見ることができます。
そして、この言葉が聖書の中に今私たち読むことができるというのは現実になっているなあと思いました。
碑文どころか、聖書の一節として取り去られることのないものとして記されています。
雅歌2章
7エルサレムのおとめたちよ
野のかもしか、雌鹿にかけて誓ってください
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
愛がそれを望むまでは
愛を呼びさまさないと。
この表現が独特なので、どういう意味なのか思いめぐらしておりました。
むかし、私の好きな曲に
「愛をとめないで」というオフコースの曲がありました。
あんまり意味も知らずに、なんとなく恋愛の心模様が伝わる曲でした。
私の思い出は、体育祭の障害物競争のBGMで、男女のペアが手を使わずに粉の中の飴をさがすというものでした。
愛がそれを望むまでは
愛をよびさまさないと。
を別の訳の聖書(リビングバイブル)で調べてみると。
どうか、私の恋人を起こさないでください。
十分に寝かせてあげてください。
・・・でした。
寝ている恋人を起こすなってことか!
ちょっとイメージと違いました。
愛がそれを望むまでは・・・
愛が神様なら、神様のタイミングを待つということかなと思いました。
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