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この苦しい経験は:聖書をめぐる旅4/29

4/29(金)
 ヒゼキヤも、そう言っていたのか、と思わされた言葉です。
苦しい体験を通して見えてくることがあります。人間の「命」、そして「見る」ことについて考えさせられました。

イザヤ書38章

5「さあ行って、ヒゼキヤに言ってやりなさい。『あなたの父祖ダビデの神である主は、確かにあなたの祈りを聞いた。あなたの涙を見て、あと十五年いのちを延ばすことにした。 6あなたとこの都をアッシリヤ王の手から救い出し、あなたを守る、と主は言われる。 7-8その保証として、アハズの日時計の目盛りを十度あとに戻す。』」
すると、日時計に落ちる日の影は十度あと戻りしました。
17今やっとわかりました。
この苦しい経験は、みな私のためだったのです。
神が愛をもって私を死から救い出し、
いっさいの罪を赦してくださったからです。
18死人はあなたを賛美できません。
そこには希望も喜びもありません。
19生きていてこそ、今日の私のように、
あなたを賛美できるのです。
あなたの真実は父から子へ代々語り継がれます。』

 余命宣告されたヒゼキヤが涙ながらに祈ったところ、神様は15年間命を伸ばすことを決められました。そして、その祈りによってエルサレムを敵のアッシリアから守ること、さらに日時計を10度あとに戻すことが約束されます。
 命が15年延ばされたことを考えたいと思います。
少なくとも、神様の言葉から人間の命の長さが神様の手の中にあることが推察できます。死ぬとわかった命が15年ながかったら、何をするでしょうか?
この世の中は、死にたい!という人の命が長く、もっと生きたいという人の命があっという間に失われることがあります。
事故でなくなった人の命を惜しむ一方で、人間が軍隊を使って民間人を攻撃するような戦争が続いています。
この矛盾の世界の中で、生きる意味を失う方もいるのも確かです。
しかし、私たちが立ち返るところは、十字架です。ヒゼキヤは祈りによって15年の命を与えられましたが、イエスキリストの十字架の贖いによって私たちクリスチャンは永遠の命をいただきました。ヒゼキヤ、すごい!という前に、私たちはさらに大きな恵みをいただいていることに感謝したいと思います。「儲けものの人生」と救われてからの人生を表現する方もいます。
矛盾の社会の中で、真の神を信じる者として生かされていることを、あらためて思いました。永遠の命とは、神様とともに歩むことです。


イザヤ書39章

2ヒゼキヤはこれを喜び、バビロンからの使者を宮殿のあちこちに案内して回り、銀、金、香料、香水で満ちた宝物倉まで見せました。さらに宝石のしまってある部屋へ連れて行き、そこにある物を一つ残らず見せたのです。

 ヒゼキヤはお見舞いにやってきたバビロンの使者に、宮殿の宝物倉まで見せてしまい、神様から怒られます。
「見よ」という言葉は、聖書の中でよく使われます。
アブラハムは、空の星を見よ。あなたの子孫は空の星のようになる。
ヨシュアも、土地を見よ。わたしはこの土地を与える。
と語られています。
「見る」とは、「支配する」という意味もあるように思います。
そのため、まだ実際におこっていないものを見せることによって、現実がそのとおりになるのかもしれません。
スキージャンプで金メダルと銀メダルをとった小林選手は、通常事前に行う試走をせずに試合に臨んだという話がラジオで紹介されていました。それは、自分がジャンプし優勝するイメージが完全にできていたので、試走する必要がなかったのだ、と。
見ることは、大きな意味がありそうです。ゴールデンウイークは、空の星、見晴らしのよいところに、注目しようと思います。


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