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禍いの宣告:聖書をめぐる旅 10/27

10/27(水) 
自分勝手に祭壇をつくったイスラエルの王ヤロブアムの息子が病気になります。困り果てて知恵をたよった預言者から語られたのは、とんでもない言葉でした。
詩編は、敵の王の只中を飛ぶ「矢」のことが記されています。

列王記上14章 

5主はアヒヤにこう告げておられた。「見よ、ヤロブアムの妻が来て、息子のことをあなたに尋ねる。息子は病気なのだ。あなたはこれこれしかじかと彼女に語れ。彼女は変装してやって来る。」

 イスラエルの王ヤロブアムの息子アビヤが病気になりました。
ヤロブアムは、自分に王になると伝えてくれた預言者アヒヤのもとに変装した妻を向かわせ、知恵を仰ぎます。しかし、預言者アヒヤの元に届いた神様の言葉が上のとおりです。人間が表面上を装っても、神様はすべてお見通しです。
彼女に語られた言葉は、まったく恐ろしい者でした。

11ヤロブアムに属する者は、町で死ねば犬に食われ、野で死ねば空の鳥の餌食になる。まことに主はこう告げられた。』

 自分たちの将来に禍いを宣告されるとは、どういうことでしょうか?
居ても立っても居られない心境で、何をすればいいのか?と慌てふためくように思います。
しかし、このことはヤロブアムのことだけでなく、
私たちにも語られているように思いました。

今日私たちに神様が語られる「十字架の言葉」も同じだと感じました。
十字架刑は罪の結果です。
そして、私たちは神様の目から見たときに、罪人であり、この十字架につかなければならない存在であることを表しています。
神様は義なる方であり、神様の正しさの前に自分に罪がないと言える人はいません。
それゆえ、イエスキリストによる救いが欠かせないのです。
私たちは、神様の前に立つ時に、まったく嘘をついたことがない、両親に逆らったことがない、異性をいやらしい目で見たことがないと言えるでしょうか?
他人との比較ではなく、自分自身はどうでしょうか?
私は、自分を正しい者とは言えません。
十字架は愛の象徴でもありますが、同時に罪の結果の象徴でもあります。
神様の前に立つ時、弁護者がいる未来と、自分の口で言い訳する未来とどちらを選びますか?
今日が恵みの時、今日が救いの日です。


詩編45章

4勇士よ、腰に剣を帯びよ。
それはあなたの栄えと輝き。
5輝きを帯びて進め
真実と謙虚と正義を駆って。
右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。
6あなたの矢は鋭く、王の敵のただ中に飛び
諸国の民はあなたの足もとに倒れる。

 弓に関連する矢が用いられる聖書箇所には、注目しています。
刀と違って接近戦ではなく、弓矢は遠方の的や敵を狙います。
また、地面に向かって矢を射る行為が預言的に敵を撃ち破る、ことを表す聖書箇所(列王記下13:18)もあります。
不十分な面もありますが、私の文章が多くの人の心を射るものとして用いられますように。
神様のいのちに至る気づきに用いられますように。



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