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コーヒー豆のお店

 コーヒー豆が売っているお店が好きだ。どのお店も、扉を開ける前から焙煎のにおいが通りに溢れている。香ばしいという言葉はコーヒー豆屋さんの軒先に使うためにあると思う。コーヒー豆が売っているお店はだいたいこじんまりして、豆やら挽いた粉やらが入った瓶が所せましと並べられてる。香ばしいにおいはさらに勢いを増して、空気そのものが濃いような気がしてくる。そしてお店の方が静かに「いらっしゃいませ」と声をかけてくれる。よく考えてみたら、威勢のいいコーヒー豆屋さんに出くわしたことがない気がする。威勢がいいといえばラーメン屋だ。なぜラーメン屋(特に繁華街)の店員さんは、どこも声が大きいのだろう。採用の基準に声の大きさなんてものがあるのだろうか。あるのかもしれない。

 ところで、私はコーヒーが飲めない。飲むとすぐに胃が痛くなってしまうのだ。学生の頃はむしろコーヒーが好物で、大学の近くにあった煙草がけむたい喫茶店によく通っていた。コーヒーを飲むと胃がおかしくなることに気づいたのは、たしか社会人になるかならないかくらいの時期だったと思う。それからはもっぱら紅茶を飲むようになり、最近ではすっかり紅茶党である。
 紅茶にもいろいろあるが、茶葉でいうとアールグレイが一番好きだ。淹れた時に柑橘のさわやかな香りが思い切り立ち上がるのがよい。茶葉によってはくすりっぽいにおいがするものがあるので、多くの場合は紅茶専門店でアールグレイを頼んで、気に入ったらそのまま茶葉を買って帰る。そんなことを繰り返しているうちに、自宅にアールグレイばかり5種類ほどストックがある。春から夏にかけて、あたたかい時期はもっぱらアールグレイばかり飲んでいる。
 秋から冬にかけてはミルクティーが多い。アッサムか、ミルクティー用にブレンドされた茶葉か、もしくはチャイを少しの水とともにミルクパンに投入し、つづけて砂糖をたっぷりすくって入れる。ミルクパンの中のお湯がすっかり濃くなったら、牛乳を入れて沸騰直前まであたためる。かなり邪道なやり方であるし、茶葉も砂糖も計量しないので味の質にはだいぶばらつきがあるが、自分ひとりしか飲まないのでそれで満足している。寒い時期はずーっとこの甘い煮出しミルクティーを飲んでいる。

 随分寄り道をしたけれど、コーヒー豆のお店である。夫がコーヒー党で、2か月に1回くらい豆を買いに出かけるので、大体私も一緒についていく。夫が豆を選んでいる間、私は豆の横にごちゃっとおかれているちょっとしたお菓子とか、小道具を眺めている。たまに紅茶の茶葉を置いてある店があるので、その時は茶葉を眺める。夫はコーヒーが好きな割にあまり豆の種類へのこだわりはないらしく、選ぶ時間はわりと短いので、退屈することはない。
お店によっては焙煎を頼める。その場合は15分~30分くらい待つように言われるので、1回店を出てまわりをぶらぶらする。
 都内であれば、どんな場所でもコーヒー豆のお店の1つや2つはあると思う。が、なんとなくイメージするのは私鉄の各駅しか止まらないような小さな駅の商店街の中に、小さな間口がぽつんとあるという姿だ。豆の種類と同じくらい店にもこだわらない夫は、ほぼ毎回異なるお店に行く。そのほとんどが、商店街の中にあるお店だった。西武池袋線の江古田駅、東急東横線の祐天寺駅、東武東上線の中板橋駅、そして西武新宿線の新井薬師前駅。
 
 一番楽しかったのは、新井薬師前駅の商店街にあるコーヒー豆のお店に行ったときだ。新井薬師前駅は、西武新宿線で高田馬場から6分のところにある駅だ。面白いのは駅の周りに商店街が2つもあることである。駅の南口からすぐのところにある商店街と、しばらく歩いてJR中央線の中野駅とのちょうど真ん中あたりにある商店街。後者は駅名にもなっている新井薬師からも近い。私たちが行ったコーヒー豆のお店もそちらの商店街の中にあった。
 夫が店の方に焙煎を頼むと、20分くらいかかると言われたので、商店街の中をぶらぶら歩いた。道路まではみ出すくらいに鉢植えが並ぶお花屋さん、骨董品みたいな喫茶店、スナック。金物屋に精肉店に魚屋。全部のお店に入りたくなってしまう。右に左に目が忙しくなっていたところ、ふと真新しいお店が目に入った。どうやらイタリア・ヨーロッパの食材専門店のようだ。店に入ると、缶詰やオリーブオイルやワイン、パスタやドライフルーツがわんさか積まれていた。どっさり積まれた食材を見ると無条件でわくわくしてしまうのはなぜだろう。さほど広くない店の中を3周も4周もした挙句、私が買ったのは、油絵具みたいなアンチョビペーストのチューブ、安売りしていたエシレバター、枕みたいな形をしたでっかいパスタ(パッケリというらしい)だった。
 すっかりうれしくなってコーヒー豆のお店に戻ったころには、とっくの昔に20分経っており、焙煎を終えた豆が私たちを待っていた。イタリアの食材でぱんぱんになったバッグにいいにおいのする豆を詰め込み、私たちは帰路についた。

 コーヒー豆が売っているお店が好きだ。でも本当に好きなのは、コーヒー豆を買うときに寄り道する商店街なのかもしれない。

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