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幸福論

どうも!中出さない犬です!

陸の孤島、岐阜県下呂市での生活が1週間経とうとしている。
相変わらず金銭的なゆとりはあまりないが、それなりに楽しく過ごせている。

夜まで働いて、温泉入ってコンビニのご飯と野菜ジュースと安いワインを飲んで少し部屋で音楽を聴いて暴れて寝る。

Wi-Fiがないのがネックだが、自分で洗濯もできてるし、一緒に飯食ったり話せる人もいる。最低限の栄養も摂れている。まあノルマクリアといったところだろうか。

到着してから2日間まるまる休みだったので、本当にお金がなくてご飯を食べられなかった。令和の日本で飢えに苦しむ人はあまりいないであろう。
少なくとも先進国に住む人間の悩みではない。

動く気力もなく、暗い部屋で寝転がって飯から離れたコンテンツをYouTubeで見ていた。
徐々に疲労回復力が落ちるのを感じて、空腹による気持ち悪さと共に、
「嗚呼このまま死ぬのかな」
みたいな不安が四畳半の和室を包んでいた。
安いのど飴を舐めて何とか凌いでいた。
やなせたかしがアンパンマンを通じて伝えたかったことがわかった気がした。

幸福とは何だ?
ふとそんなことを考える。
MDMAを食ってるわけでもないのに身に余る幸せを感じている。何かが増えたわけではない。
むしろ横浜にいた時より確実に不便である。

都会は引き算をさせられることが多い。
他人の煌びやかな虚像の生活と自分を比べては足りないことばかり考えてしまいがちだ。
それは悪癖とかでもなくSNS社会の運命みたいなものなのだと思う。
SNSはきっと人を幸せにするためのツールではない。

上には上がいるだけの話なので足りないものを数えていては幸福から離れるだけである。
もっと根源的な幸せを感じて、有り難がりたいと思うようになった。
陽の光を浴びられること、固形のご飯を食べられること、燕の巣が大きくなっていくこと、
資本主義社会で幸せになるために生産活動をするものだと思っていたが、それはオプションでしかないのだ。本来の幸せはもっと近いところにある。生きるのは温くて、気持ちよくて最高である。

根源的な幸せに目を向けると、横浜で描いていた幸福像はびんぼっちゃまみたいで本質的じゃなかったんだと思った。

見栄の張り合いはやめよう。在るものを大事にしよう。それだけだと暇だからオプションを稼ごう。足るを知れたから、足りないものを補うためじゃなくて、アディショナル幸せを掴もう。
そろそろ部屋干しの洗濯物は乾いただろうか。ではまた!!

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