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【第15回】なぜ表現の自由が重要なのか #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

前回お話しした、表現の自由に関する理論が導かれるのかについて、表現の自由の持つ価値や機能ということを指摘しました。それでは、具体的にはどのようなことなのかについてみていきたいと思います。

個人の自己実現

「個人の自己実現」にとって不可欠の価値を有するということです。これまで見てきたように、個人の尊厳、尊重ということから導かれる、いわば個人主義的意義があるということは、すでにお分かりいただけているのではないでしょうか。

国民の自己統治

表現の自由は、民主主義のプロセスを基礎づけるというこれもまた重要な価値を持っています。「立憲民主主義の維持・運営にとって不可欠の人権である」といわれることもあります。個人の自己実現と並んで、「国民の自己統治」にとって不可欠の人権ということができます。

特にこの点で、経済的自由と比較したときに、重要性が理解できます。どういうことかというと、経済的自由を規制する法律に仮に行き過ぎがあったとしても、表現の自由が保障されていれば、「この法律の規制はやりすぎだ」と批判することもできますし、場合によっては、そのような政策を強行した政府を、次の選挙で変えることもできます。いわば、表現の自由が保障されていれば、民主主義のプロセスによって、政府の行動を是正することができます。

しかし、表現の自由が制限する法律に行き過ぎがあったとすると、民主主義のプロセスそのものが毀損してしまいますから、是正手段が失われることになります。失われないまでも、是正手段が不完全になります。表現の自由は、ガラスの少年時代のように、「壊れやすく傷つきやすい」人権なのです。

このことから、経済的自由のような政策的制約は表現の自由には認められるべきでないだけでなく、規制にはより慎重でなければならないということになります。

二重の基準論

ところで、およそ国会で制定された法律は合憲であると推定されます。理屈の上でも、正当に選挙された両院の議員が正当な手続で議決している以上は、内容についても合憲だと推定するは当然のことと考えられます。ましてや、福祉国家、社会国家化した現代においては、政策を遂行していくために、経済的自由に一定の制限を加えるということは、日常茶飯事です。

実務的にも、内閣提出法案の場合には内閣法制局による法案審査が行われています。ほかの法律との整合性などが審査の中心ですが、その前提として、法案が合憲かどうかについても審査しているのです。
国会でも、疑義がある場合には、この法案は違憲の疑いがあるのではないか、という指摘がなされ、「いやいや、こういう理屈で合憲だ」という議論をしたうえで、法律を作っています(それが充分かどうかについてはいろいろな評価のあり得るところですが……)。

さらには、日々、全国であらゆる裁判が行われていますが、「違憲立法審査権があるのだから、いちいち、違憲性を疑え」といって裁判所が適用する法律について1つ1つ合憲性審査を行うというのも現実的ではありません。

しかし、表現の自由を規制する法律については、別だ、というのが二重の基準論です。表現の自由の規制に行き過ぎがあると、民主制の過程が毀損してしまうことから、少なくとも「合憲性の推定」は排除されるべきだ、というところまでは学説上ほとんど争いがありません。

そこから、表現の自由を規制する法律に「違憲性の推定が及ぶ」とか、さらには、「挙証責任(立証責任)が転換される」というところまで行くか、ということについてはややニュアンスの違った形の主張があります。

いずれにしても、表現の自由を規制する法律の合憲性が裁判で問題となった場合には、国の側で、「違憲の規制ではない」ということについてしっかりとして説明をする責任が生じることになります。

ここで、原告が証明責任を負わないのだとすると、被告つまり国は裁判が下手だったから負けることになる、ということが論理的には起こりえます。しかしこの場合、国が表現の自由を制限することを裁判所に説得的な説明ができなかったことになりますから、表現の自由のほうを優先することのほうが重要だと考えるわけです。

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