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【第27回】刑法での議論はどうなっているのか #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

基本的な考え方について

わいせつ関係の罪がなぜ犯罪となるのかについて、性行為非公然の原則が世の中にあるからだ、という説明の仕方があります。しかし、これまで検討してきたように、人に刑事罰を与える、あるいは表現の自由を制約するのであれば、個人を超えた国家や社会の秩序を理由とすることはできないはずです。

個人のプライベートな生活に法が侵入することは原則としてすべきではありませんから、たとえば成人同士の同意のある性行為を刑事罰の対象とすべきではありません。当たり前ではないかと思う方もいらっしゃるかもしれません。実際、日本では、歴史的に同性同士の性交は刑法の対象とされてきませんでした。しかし、外国では成人間での同意の上での行為であっても処罰の対象とされてきた国も少なくありませんし、現在でも処罰対象としている国もあります。

浮世草子に寄り道

同性愛を処罰するのは、宗教的な背景があることはよく知られています。これに対して、日本では歴史的に処罰対象とされたことはないようです。中世においては、同性性交は悪徳ではなく、徳であったとさえいえるかもしれないという話があります。異性に対する愛情は武士にとって徳ではなく弱さを示すものであって、同性性交は女性からの関心からまったく脱却していることを意味していたからです。有名な戦国武将に男色の趣味があった、みたいな話は、現代では「実は……」みたいな形で語られることがありますが、当時はむしろあっぱれであると堂々と語られていたのかもしれません。

井原西鶴といえば、浮世草子『好色一代男』が有名ですが、1687年に発行された男色大鑑では、武家社会と町人社会で習俗として公認されていた男色が、男同士の関係の心意気として描かれています。江戸版ボーイズ・ラブといったところでしょうか。現在、角川ソフィア文庫版が書店でも手に入れることができます。

少しわき道にそれてしまいました。プライベートならよいとしても、公衆の面前でそのような行為に及ぶことや、あるいは性行為の無修正の映像を駅前広場の巨大スクリーンで上映するようなことが許されるか、となると、いくら刑罰について抑制的に、あるいは非犯罪化すべき、という人でも、これはさすがに可罰的なのではないか、犯罪として処罰することはあり得るのではないかと考えるのではないでしょうか。いくらポルノに寛容な国であっても、このような行為まで容認しているという話は寡聞にして聞いたことがありません。

では、どのように考えるのか

刑法では、従来「社会的法益」と説明されてきたものについても、多数の個人の法益、つまり「公衆に対する罪」と構成すべきという考え方があることについてすでにお話ししました。

このような考え方からすると、見ることを欲しない人の目に触れざるを得ないようにするということによって、その人の性的な感情が害されるので、犯罪とするのだ、と説明されることがあります。つまり人々の性的な感情が刑法によって保護されるべき利益「保護法益」だ、というのです。

もしこのような考え方で刑法の解釈・運用が図られれば、わいせつ規制のかなりの部分について疑問は解消することができるように思われます。昭和の時代にはストリップ劇場の摘発などもニュースになったことがありますが、観たい人がお金を払って観に行っているのですから、いわば「被害者のない犯罪」であって、摘発すべき案件ではないことになります。文書、図画の表現内容についてわいせつ性を認定することに重点があるのではなく、売り方や陳列の仕方という行為態様に重点を置いた規制になりますから、表現の自由に対する恣意的な摘発がまったくなくなるとまでは言いませんが、相当に少なくなるはずです。

ゴッド・ファーザー

わいせつ犯罪の背景には性的搾取があり、より積極的に処罰すべきだという主張もあり得ます。しかし、そのような対策は別の方策によるべきと考えます。最近あまり聞かなくなりましたが、かつて裏本、裏ビデオが暴力団の資金源になっていたことは有名な話です。これは、法律で禁止しているおかげで、やくざが資金稼ぎできていた、ということを意味しています。つまり、わいせつ物を禁止していることがかえって違う形での性的搾取を行う可能性のある集団を援助していたことになります。禁酒法の時代にアル・カポネが富を築いたことと同じ構造です。むしろ処罰範囲を限定することの方が、刑事政策的にも適切であると考えられます。

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