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【第10回】人権宣言と人権の制限 「公共の福祉」ってなんだ? #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

日本国憲法には人権宣言にあたる部分がある

私が、憲法というものが、統治機構と人権宣言で構成されること、日本国憲法もその例外ではないことを学んだ当時、日本国憲法第3章はこれまで歴史の教科書や政治経済の教科書で学んできた「人権宣言」に相当するものだ、ということに感銘を受けました。日本では内戦や市民革命によって勝ち取ったものではないかもしれないけれども、人類の歴史の中で勝ち取られた人権宣言が憲法に書かれているのですから。

そのことがよくわかるのが、憲法13条の条文です。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法

デジャヴな感じがするのではないでしょうか。これを読んだとき、若かりし日の私は、「あら、人権宣言じゃん」と感じたわけです。

ここで、「すべて国民は、個人として尊重される」というのは、個人主義の原理ないし人間主義、ヒューマニズムを表現したものと理解されています。似たような文言が憲法第24条第2項にもあって、そこでは「個人の尊厳」と書かれています。「お国のため」というような全体主義、つまり個人を超えた価値のために個人を犠牲にしてもかまわないという考え方に対するものです。

「滅私奉公」だとか、お国のために命をささげることさえもが美徳だとされた戦前は、「国のために国民があった」のに対し、日本国憲法の下では、「国民、個人のために国があるのだ」、もっと言えば、「国家そのものも人権に奉仕する存在だ」、とう価値観の大転換でもあるわけです。

「公共の福祉」

これまで見てきた、近代の人権宣言と違って、「公共の福祉に反しない限り」というお断りがあります。「公共の福祉」という文言は、ほかには第22条第1項と第29条第2項に出てきます。

第22条第1項 何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。

第29条第2項 財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに、法律でこれを定める。

日本国憲法

日本国憲法制定後、しばらくの間、最高裁は、公共の福祉の内容について必ずしも明らかにしないで、さまざまな法律について、「公共の福祉に適合する」から合憲だ、憲法違反ではない、という判断をたくさんしていました。しかし、「公共の福祉」という言葉に、もし「国の利益」のようなものを読み込んでしまうようなことがあれば、「お国のために個人があるのだ」という考え方が裏口入学するようなことになってしまいます。

そこで、そもそも「公共の福祉」ということを理由に人権を制限することはできるのか、もしできるのだとすれば、「公共の福祉」なるものの内容はいったい何なのか、ということが問題になります。

人間主義、個人主義の観点からは、人権は、何よりも高い価値が認められるべきですから、人権にまさる価値というのは、本来ありえないはずです。したがって、もしある人の人権に対して、その制約が必要だ、というのであれば、それは、他人の人権も尊重しなければならないという局面での調整が必要となる場合、人権相互の調整が必要な場合でなければならないはずだ、と考えられます。ある人の人権に対して制限を要求することができるのは、国の利益とか、社会のモラルなどという抽象的なものではなく、制約を受ける人権と等しい価値を有するもの、つまり他者の人権でなければならないはずだからです。
 
「自由とは、他人の権利を害しないあらゆることをする人間の力である」という言葉がありますが、いわば、人権そのものに内在する限界、すなわち「内在的制約」があることを示しています。この点において、個人主義は、他人の犠牲において自己の利益を主張しようとするエゴイズムとは違うということができると考えます。

このように、人権は「公共の福祉」によって制約を受けるとしても、その内容は抽象的な公益や、ましてや国益を理由とすべきではなく、ある人権ともう1つの人権の調整であるべきだ、と考えられます。

しかし、この調整の仕方は、近代と現代とでは異なってきます。この点についてはまた改めて。

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