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【第60回】改めて表現の自由とは何を保障しているのか⑫ 知る権利 #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

「公用物」から「公共用物」へ

情報公開法が制定される以前は、行政文書というのは、「公用物」とされてきました。公用物というのは、「行政主体が自己の執務の用に供する有体物」と定義されます。平たく言えば、役所が仕事のために使うもので、あくまでも役所のために使われる物、一般の皆様には関係のない物とされてきました。

そもそも、日本には昔から公文書や公の記録を保管しておくという習慣がなかったわけではないでしょう。しかし、保管していたものがあったからといって、それを公開しなければならないなどという発想はなかったものと思われます。

これが、情報公開法の制定によって、行政文書も晴れて「公共用物」となりました。行政法学者は、このことはコペルニクス的転換だという人もいます。「共」の一文字が入っただけで大げさな、と思う方もいるかもしれません。公共用物の定義は、「行政主体により国民一般の利用に供される有体物」つまり、役所が一般国民の皆様の利用に提供するための物ですから、確かに役所にとっては天と地がひっくり返ったくらいの違いといえるかもしれません。

重箱の隅ではない憲法問題

行政文書は役所の物ではなく、国民の物であり、それは憲法第21条の表現の自由を具体化したものですから、行政文書は適正に作成され、管理され、保存されることが必要となります。2009年から、公文書管理法が施行されて、都合の悪い文書を破棄するなどの恣意的な管理がなされないような体制が、制度上は担保されています。

にもかかわらず、というのが森友・加計学園問題における文書破棄や改ざんの問題です。まさにあってはならないことが行われたとしか言いようがありませんし、これまで憲法第21条に関して裁判所や学者、立法府での積み上げてきた成果を蹂躙するような事件であったことは、これまでの説明でご理解いただけるのではないかと思います。

リアルな経験から

モリ・カケ事件が国会で取り上げられていた当時私は、辻元清美国会対策委員長の下で副委員長を務めていました。特に公文書の改ざんが明らかになった時には同僚議員も含めて相当な衝撃を受けました。いくら何でも……という感覚です。

国会だけでなく、地方議会でも同様でしょうが、行政側にとって都合の悪い質問に対しては、はぐらかしたり、すれ違いの答弁というのは、いい悪いは別にして、往々にしてあり得ます。これをよしとするわけではありませんが、そのうえで、さらにどのように切り込んでいくのか、というのは議員としての腕の見せ所という側面もあります。ただ、議会でウソをついたり、偽造文書を示されるということはあり得ないというのは大前提です。

憲法学者もお怒りなのでは?

この問題については、憲法の大家である佐藤幸治・京都大学名誉教授も、その著書から、お怒りなのではないかということが推察されます。

2011年版の『日本国憲法論』(成文堂)の252頁には、

「……情報公開法(条例)が憲法上の要請に基づくものと解される以上、文書(情報)管理体制の構築や公開基準などの設定およびその運用につき、憲法上の統制が働くことが留意されなければならない」

日本国憲法論(成文堂)

と書かれていたのですが、2020年版『日本国憲法論[第2版]』の281頁には、

「……情報公開法(条例)が憲法上の要請に基づくものと解される以上、文書(情報)の確かな作成と適正な管理体制の構築や公開基準などの設定およびその運用につき、憲法上の統制が働くことが留意されなければならない」


日本国憲法論[第2版](成文堂)

と「確かな作成と適正な」という文言が付け足されたうえに、傍点による強調が付け足されました。さらに、315頁には、2011年度版にはなかった叙述が出てきます。

「……情報公開制度は、行政法的には『公用物』(公文書は役人のもの)から『公共用物』(公文書は国民のもの)へのコペルニクス的転換であったという、先に紹介した一文を想起されたい。

しかし、平成29(2017)年から30年にかけて生じた森友・加計学園問題は、権力・行政の公文書の扱い方に関する安易性・恣意性(公文書の廃棄・隠匿・改ざんなど)の可能性に懸念を抱かせるものがあった。」

あくまでも憲法の教科書ですから、表現は穏やかですが、「けしからん」という想いがにじみ出ているように感じられます。

いまさらモリ・カケでもなかろう、という方もいらっしゃるかもしれませんが、憲法上の「知る権利」を考えるにあたって、これからも読み継がれるであろう憲法の教科書に登場するぐらい、反面教師的な実例であることは記憶しておく必要があると思います。

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