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【第57回】ノンフィクション『逆転』裁判(最判平6.2.8) #山花郁夫のいまさら聞けない憲法の話

犯罪の前科の公表をめぐっては、公権力に対してではなく、作家に対する損害賠償を請求する裁判になった事件があります。
伊佐千尋(1929~2018)作・『逆転』(1977年、新潮社)という小説がプライバシー侵害として訴えられたものです。この小説は1978年に大宅壮一ノンフィクション賞(公益財団法人・日本文学振興会主催)を受賞したものだったこともあり、当時かなり話題となった裁判です。

どんな内容の作品か

『逆転』は、1964年8月に、米兵2名と日本人4人の間で喧嘩があり、米兵1名が死亡、米兵1名が負傷したという事件を題材にしています。沖縄がまだアメリカ合衆国の統治下にある時に起きたこの事件で、傷害致死罪および傷害罪の陪審裁判が行われました。

この刑事事件で傷害致死事件については無罪、傷害事件については有罪となり、懲役3年の実刑判決を受けた日本人の一人が、この作品のなかで実名で登場していました(現在刊行されている書籍では、仮名になっています)。

原告側の主張

この人物は、この事件で服役を終え、沖縄でしばらく働いてから東京へ引越しました。そして、都内のバス会社において運転手として就職しまし、結婚もしました。

就職先にも結婚相手にも前科を秘匿していたのですが、沖縄とちがって、本土ではこの刑事裁判の報道はまったくなかったので、本人の前科経歴が周囲に知られることはなかったようです。

ところが刑事裁判から12年余の歳月が経過してから、この小説『逆転』が公刊され、原告の実名が記されていたことから、前科にかかわる事実の公表により精神的苦痛を被ったので、慰謝料として300万円の請求を求めた、というのがこの事件です。

最高裁の判断① 前科を公表されない利益

最高裁は、「前科を公表されない利益」について、次のように判断しました。少し長いですが、いろいろなケースがあるのだということを検討していますので、引用したいと思います。

まず、「ある者が刑事事件につき被疑者とされ、さらに被告人として公訴を提起されて裁判を受け、とりわけ有罪判決を受け、服役したという事実は、その者の名誉あるいは信用に直接かかわる事項であるから、その者は、みだりに右前科にかかわる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益を有するものというべきである」としました。

簡単に言えば、前科を公表されない、ということは、「法的保護に値する利益」だというわけです。

そのうえで、「その者が有罪判決を受けた後あるいは服役を終えた後においては、一市民として社会に復帰することが期待されるのであるから、その者は、前科等にかかわる事実の公表によって、新しく形成している社会生活の平穏を害されその更生を妨げられない利益を有する」というのです。

平成6年の判例ですから、まだ「忘れられる権利」という言葉は出てきませんが、「一市民として社会に復帰」した後の「新しく形成している社会生活の平穏」が害されると「更生を妨げられ」る、つまり再犯への道へ進んでしまうおそれがあるから、これを妨げられない利益があるのだ、と言っています。

内容において「忘れられる権利」にかなり近いことを言っていると評価することができると思います。

最高裁の判断② 前科の公表が許される場合

もっとも、最高裁は、以上が原則だけれども、それにもかかわらず前科の公表が許される場合もあるのだ、としています。

まず、①「事件それ自体を公表することに歴史的又は社会的な意義が認められるような場合」を挙げています。

たしかに、歴史的な事件となれば、事件当事者を歴史の教科書や年表でX氏Y氏と記述して掲載するわけにはいかない場合もあり得ます。

ただし、実名であることも認められる場合がある、ということは、教科書であれば実名で記述することがすべて適法になるということを意味していないことには注意が必要です。

最高裁の言い回しも、「実名を明らかにすることが許されないとはいえない」とやや慎重な言い回しになっています。実行犯である特定の個人に背景的な事情がなければ、「青年将校」という語られ方をする歴史的な事件もあることには注意が必要でしょう。

また、②「その者の社会的活動の性質あるいはこれを通じて社会に及ぼす影響力の程度などのいかんによっては、その社会的活動に対する批判あるいは評価の一資料として、右の前科等にかかわる事実が公表されることを受忍しなければならない場合もある」としました。

公的な役割を担っている人物であったり、私的な団体であっても慈善団体や補助金をもらって活動している団体などであれば、その指導者が社会的評価の対象となりうる場合もありますから、時としては虚名が暴くことが必要だ、という場合があることは否定できないことと思われます。

さらに、③「その者が選挙によって選出される公職にある者あるいはその候補者など、社会一般の正当な関心の対象となる公的立場にある人物である場合」を挙げたうえで、「その者が公職にあることの適否などの判断の一資料として右前科等にかかわる事実が公表されたときは、これを違法というべきものではない。」としています。

本件についてはどうなるのか

最高裁は、これまで述べてきたような一般論を述べたうえで、前科を公表されない利益―これは「忘れられる権利」の側の利益です―と、実名使用の意義、必要性―これは表現する側の利益になります、この利益衡量によって決すべきとしました。

本件については、裁判からこの小説が刊行されるまでに12年余の歳月を経過しています。その間、原告が社会復帰に努めて、新たな生活環境を形成していたことや、地元を離れて大都会の中で無名の一市民として活動していたことなどから、「実名を明らかにする必要があったとは解されない。」として、原告勝訴の判決となりました。

繰り返しになりますが、この判決の時点では「忘れられる権利」について大きな議論があったわけではありません。私人間の損害賠償請求訴訟ではありますが、「忘れられる権利」が憲法上の人権、「背景的権利」としての実体を獲得していく過程の重要な判例ではないかと考えることができると思います。

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