ambient tune 聴取の詩学V

眼前の風景を楽譜と見立て、それを見ながら演奏する。
そんなふうに即興演奏することを夢想しています。
加古隆がクレーの絵をみながら演奏してたみたいに、
楽譜じゃないものから音楽を読み取って演奏する。
世界の全てが私に音楽を奏でさせてくれる…そんな素敵な境地に入ってみたいな、と。
…まあ、修行中です。

昔、ある時ふと思いました。
スケッチって、特に速写するスケッチ(クロッキーというほうが適切ですね)って、
決して対象をそっくりに描くことが目的じゃなくて、
対象に触発されて自分から出てくる描線で即興演奏をすることなんだって。

描線、それは音楽と同じくらい高度な抽象。
描きだした描線と同じものは対象のどこにもありません。
何せ実在のものには輪郭線なんてないんですから。
対象の形態に束縛されない自由で自律したもの、
それ自体独自のリズムを持ち、それ自体で独自の旋律を奏でる。
私はクロッキーの真骨頂はそこにあると思っています。
だから私の描く線は一発勝負、形を整えるたり修正するために同じ輪郭を何度もなぞることはしません。
線の奏でる旋律、ハーモニーがボケてしまうから。

私が「上手い」と思う絵描きは描線を即興演奏のように奏でられる人。
レンブラント(の銅版画)、ホルスト・ヤンセン、棟方志功、サイ・トゥオンブリー等々、
中でも素描の線の魅力を初めて教えてくれたエゴン・シーレの存在は私にとって格別。

これとは反対に、例えばリアルな作品になればなるほど、そこに描かれた線は他律的なものになっていきます。
それらの在り様は対象から規定されたもの。
平たく言えば「線は対象の形態をなぞるように同じものでなくてはいけません。勝手にへんな線描いちゃ対象そっくりになりません」と。

ただ単に写真のようにリアルな絵って器用さと丁寧さと根気があれば描けるんです。線を奏でる力量がなくても。
そういう絵、多いです。
決してリアルな絵画を卑下しているわけではありません。
線で「奏でる」ことのできる力量のある画家の作品は、
リアルなものであっても、対象の造形が奏でる旋律を聴取しながら
その歌心をもってしっかりと対象を歌い上げている、そんな印象を受けます。
例えば、同じ譜面に忠実な演奏でも、単に機械的に正確なものと独自の表現力を失わないものがある、そんな違い。

まだ、自分が絵を描く人生になるなんて思いもしなかった中学生のころ。
夢中になった遊びがあります。
動物が出てくるテレビ番組、具体的には「野生の王国」って番組ですけど、
それをみながらクロッキーをするんです。
ただ動物を上手に描きたいなら写真でも見てそれを写せばよいのでしょうが、それは違う。
テレビの画面の中で動き回る動物を眼で追いかけながら描く。
描線の魅力なんて、多分その当時は全く意識していなかったと思います。
でも、きっと動物を描くことよりも、線を描くことが面白かったのでしょう。

動き回る動物を描く工夫。
動き回る動物をジッと見つめる。ここだという瞬間に眼を閉じる。その刹那、目に残った残像を描く。
我ながらよく考えたものだと思います。今でも重宝してます。
動く電車の中から、通り過ぎる向かいのホームの人物を描くなんて時にこの方法を使ってます。


今日はあいにくの雨。研究室の窓から見える尾根、霧の中に白く霞み輪郭だけが際立っています。
遠い尾根、近くの尾根。重なりあうその輪郭がポリフォニー音楽のよう。
学生に言うんです。
自然の中にあるこうした豊かな表情を沢山観察し沢山描けば、やがて君の線も歌うようになるよって。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?