ambient tune 聴取の詩学I

数日前に作った曲があります。
正確には「作った」ではなく「そのように成ってしまった」もの、即興です。
「作る」というのは目的や完成のイメージがあって、それに照らして「こうしよう」「こうすべき」「これは違う」「こっちのがもっと良い」…といった具合に吟味していくものです。
でもこの曲はそのようにしてできたものではありません。
適当に弦を押さえる。何調にするにはどの音を押さえるか、という知識はありますが、いざ今押さえた状態で鳴らしたらどんな音が聴こえてくるのか、きっと専門的にやっている方はイメージできるのでしょうが、私は鳴らすまで全く想像できません。またこんな響きにするためにどこを押さえ、どの弦を弾けばよいのか、そいうことを咄嗟に判断する力もありません。
つまり自分で弾いているにもかかわらず、全く自分でも思いもよらない音、フレーズ、響きと瞬間瞬間出会っているのです。その音達に注意深く耳を傾ける。しばらく繰り返す。そのうち、ちょっとリズムパターンを変えてみる、左手はそのままに弾く弦の組み合わせを変えてみる。左手の押さえる位置を変えてみる、指だけじゃなくて棒で弦を叩いてみる…恐る恐る、慎重に、好奇心を持って、開き直って…生まれては消えそして、変化していく音に深く耳を傾けながら。
そうしてできあがったものを聞きながら、そのフレーズに別の音を重ね、絡ませていく。ギターだけじゃなくて、鈴とかノイズとか。どこで何をどう鳴らそうか、最初に録音したフレーズの息づかいを感じながら。

「こうしよう」「こうすべき」「これは違う」「こっちのがもっと良い」ということは無意識には働いているかも知れません。でもそんなことを思っている暇もないほど、事柄は現在進行形で進んでいます。出してしまった音が「違う」と感じてもどうすることもできません。大袈裟に言うなら、我が身に起こったことを全てを受け入れて次に繋げていくしかないのです。そして、そのようにして起こったからこそ次のものがそのように生まれてくるのです。別のことが起こっていたら次に出てくるものも違ってくるでしょう。可能性はいくらでもあります。しかしそこではひとつの現実だけが淡々と進んでいきます。その流れと同じ速度で感覚が流れる、それ以上でもそれ以下でもない自分になる。自分がその流れと等身大になる緊密な時間(以前言った、次に生まれるときは音楽になりたい、っていうイメージはそこからきています)。

作曲にとっても「聴く」ことはとても大切だと思いますが、こうした即興での「聴く」とはまた質の異なるものだと思います(深いところ、根底では同じでしょうが)。「聴取の詩学(庄野進著 勁草書房)」の「聴取」もこれに近いものだと私は解釈しています。
「まだまだ私の耳は未知の響きを感受できる可能性、能力をもっている。ただただその能力を発揮したい」きっとジョン・ケージも生涯そう祈り続けたんだと思います。

…てな感じですが、ニュアンス、上手く伝えられているでしょうか…難しいね。

「作る」ことも「成す」ことも、どちらも人間にとって大切なもの。人間が豊かに暮らすためにはどちらも必要です。ところで、もし完璧に自分の人生を思い通りに計画し「作る」ことができたらどうでしょうか。大切な人、愛する人の死をその中に積極的にレイアウトするでしょうか。実際の人生では私たちがどう思おうが大切な人の死は無計画に訪れてきます。「これは違う」とやり直すことはできません。

我が身に起こったことを全てを受け入れて次に繋げていくしかないのだと思います。

歴史上、星の数ほどの人が死んできたわけですが、他の誰でもないその人の死、私にとってのその人の死は他のどの死でもない唯一無二のもの。深く耳を傾け、目を凝らし、全てを受け入れて次に繋げていくしかないのだと思います。曲の中でもいろんな音が生まれては死んでいきます。どの音の生も死も唯一無二、一期一会。

演奏している最中にそんなことをいちいち考えているわけではありません。そんなわけで出てくる音やフレーズは意味もなければ託した想いもありません。でも意味も目的も意図も何もないものが(ないものだからこそ)深いところで意味を持つ、生物や脳のことを学ぶにつれその想いが確信になっていく今日この頃です。

まあ話を分かりやすくするために純粋な感じで書きましたが、実際にはいろいろ邪念も計算も、こうしたらかっこいいかなっていう色気も混ざってはいますけどね。まるっきり無秩序な即興ができたらこうして書いていることももっと説得力がでるのかも知れませんが、現状なかなか手が出せないです。

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