備忘録 15. おやじギャグ礼賛

私は、駄洒落が大好きだ。でも、おじさんが駄洒落を言うと、親父ギャクと言われて、ひんしゅくを買う。駄洒落と韻の違いを調べると、駄洒落は言葉を変えずに重ねるだけだが、韻は母音は同じで別の言葉を重ね、言葉にリズムを生むことができる。ラップなどで愛用される。。。などと書いてある。明らかに韻は素晴らしくて、駄洒落は下等な表現らしい。

某公共放送までが、高齢の男性が駄洒落を言うのは、歳をとって前頭葉が崩壊し、つまらない駄洒落を言うのを制御できないからだと、言われてしまう始末である。私が、駄洒落を連発しても、社会の反応は似たり寄ったりだ。ただ、ときどき、凄い!とか言う人がいるので、また懲りもせず、駄洒落を発し続けてしまう。

いま、前文で、駄洒落の前に、「つまらない」と自分で書いてしまいそうになって、慌てて消した。そう、私は、世間が思うほど、駄洒落が「つまらない」とは思っていない。なぜなら、サイエンスに携わり、成果を社会に出す作業を長年つづけていると、クリエーティブに何かを生み出す作業は、駄洒落を生み出す作業と同じであることを知っているからだ。

世の中の新しいもののほとんどは、ゼロから生み出されることはない。現在までに生み出された何かと何かを結びつけて、新しいものを生み出すのだ。ニュートンだって、リンゴが落ちることと重力を結びつけることで、万有引力の法則を見つけだしたではないか。

駄洒落は、そのように、全く違った何かと何かを結びつけて、新しいものを生み出す創造的活動の練習にすぎない。他の人はともかく、そのような活動を日々くり返していないと、私には、新しいものを創造することはできない。駄洒落を駄洒落だけで、評価してほしくない。駄洒落をくり返す訓練を通じて生み出される何かをもって、駄洒落を評価してほしいのである。

駄洒落こそ、創造の礎。私はそう思う。あなたのお父さん、お爺さん、職場や近所のおじさん、その人達の日々の訓練を、「何をバカなことを言ってるんですか?」とさげすむのは、止めていただきたいのである。お願いします。