備忘録 16. オリンピックは、本当に平和の祭典なのか?
パリオリンピック2024がそろそろ終盤を迎えている。日本の選手たちもそれぞれ活躍し、テレビやインターネットで楽しませてもらっている。しかし、楽しんでいる反面、どこか心の片隅で、魚の骨が引っかかっているような気持ちにもなっている。それは、「オリンピックというのは、本当に平和の祭典なのだろうか?」という疑問である。
最初にそう思ったのは、オリンピックでメダルを取れなかった選手の悲壮な姿である。オリンピック開催前に、金メダルを期待されていた選手ほど、金メダルが取れなかった、早々に敗退してしまった。。。などで、この世の終わりかのように嘆き悲しんでいる姿が、テレビに映し出される。しかも、SNSなどでは、勝者は賞賛され、敗者はこれでもかというほど、バッシングを受ける。バッシングは、勝ち負けだけではなく、嘆き悲しんでいる姿にさえ投げかけられる。
私もスポーツは大好きだ。自分でするのも良し、テレビやスタジアムで観戦するのも良し。とても、素晴らしい娯楽である。しかし、自分でスポーツをするとき、練習は好きだが、試合は好きではない。それは、試合に勝ち負けが付きものだからだ。その勝ち負けが、単に勝った!負けた!という事実だけなら、特に問題はない。しかし、負けたときに、味方の選手などから投げかけられる非難は耐えられない。だから、一生懸命練習はするが、公式戦に出ることは、できる限り避けている。
そんなスポーツへの取り組みは、不適切なのかもしれない。しかし、そういう性格なのだから、仕方が無い。私の好みのもんだいだから、許して欲しい。そういう私だから、オリンピックの試合に負けて、ひどく落ち込んだ選手を見るのがとても辛い。良いじゃないですか、人生をかけて、一生懸命練習してきたんだから、そこを認めてあげれば。。。どうして、金メダルを取ったかどうか?でそんなに評価を変えるんだろう。努力の過程を褒めてあげれば良いのに。。。
私は、トーナメント方式で、勝ち負けが決まっていく種目よりも、自分のパフォーマンスで、得点が表示され、その得点で争う競技の方が好きだ。たとえば、スポーツクライミングや空手の型などである。これらのスポーツでは、誰かとの戦いで相対的に勝ち負けを決めるのではなく、自分のパフォーマンスの出来だけで、優劣が決定するので、少しはマシである。しかし、理想的には、優劣も決めて欲しくない。自分のこれまでの努力の成果がどのように現れたか?その点数だけを、それぞれが持ち帰れば良いのではないか?いや、選手たちはそれでは満足しないのであろう。もちろん、観客も同じだ。
最初の命題に戻ろう。「オリンピックは、本当に平和の祭典なのだろうか?」という疑問である。もちろん、オリンピックで、他人を殺したりする訳では無く、他の国を侵略する訳ではない。スポーツは極めて、平和な手段で優劣を決めて、スポーツを行う人、観戦する人を楽しませてくれる。それは、事実だ。でも先ほど述べたように、勝ち負けで、異常なまでに落ち込む選手がいて、異常なまでにバッシングがあり、異常なまでに審判たちに意義を唱える人々がいる。そのような実態を見ると、オリンピックを単純に平和の祭典と呼ぶことは、私はできない。たぶん、戦争という形式を避け、その代わりに”平和”な形で、人間が本来持っている闘争本能などを昇華させる活動なのだろう。その意味では、確かに「オリンピックは平和の祭典」なのだろう。そうだとしても、SNSでの選手や審判へのバッシングの様子や、金メダルへの過度の渇望や欲求は、度が過ぎているように思えてならない。それは、現在の社会全体が漠然とある方向に向かっていることの証拠のような気がしている。そして、その方向と間違いなく”平和”な未来ではない。