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【凸凹と歩む】0か100かの世界を生きる

自信のないことにも挑戦できるのは、ものごとが0か100かだけではなく、30や50という到達点もあることを知っているからだと思うのです。

では、0か100しかない世界で生きる人は、どのように世界をとらえているのでしょうか。

次男は自閉スペクトラム症(ASD)。
とことん得意なことと、とことん苦手なことがある、凸凹の激しい子です。
次男が徐々に語ってくれるようになった凸凹の世界について、そばで見ている親の立場からお伝えしていきたいと思っています。

(注:「ドラゴン桜2」最終回のネタバレを含みます。これから録画を見るのを楽しみにしてるんだ!という方はご注意ください)

0か100かの世界とは?

ドラゴン桜2の最終回、もう感動の嵐でしたね~~~!
私が特に涙してしまったのは、藤井君のエピソードです。
最初はあんなに嫌~な奴だったのに、健太君を助けるいい奴に!
そのせいで試験に集中できなくなってしまったけれど、彼にとっては誇らしい不合格。
桜木先生に「今のお前ならもう大丈夫だ」と言わしめた成長ぶりは、東大専科の中でも顕著でした。
彼がこれから歩む人生を考えれば、これほど意味のある不合格があるでしょうか。結果的に不合格ではあったものの、もう本当に素晴らしい、80点ぐらいあげてもいい。もう、涙、涙ですよ~~~!

が。

次男からすれば、勉強して合格すれば100だけど、不合格なら0でしかない、というのです。

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「えー?でも、いい奴になったじゃん。そこは評価してあげないの?」
「藤井君の目標は『東大に合格する』だったんから、合格できてれば100だけど、合格できなかったら0でしょ?もし、目標が『いい奴になる』だったとしたら、今回の行動は100。でも、いい奴になるのは別に目標でもなんでもなかった訳で、彼の行動は合格に全く関係ない。だから、0」

うーん…。そりゃ、そうだけどさ…。じゃあ、早瀬ちゃんは?

「東大不合格だから0。青学に受かったのは、別ベクトルの100。頑張ったから80とか、そういうのはおかしいでしょ。もし、頑張ったというジャンルで評価するなら、100。でも、合格か不合格かのジャンルなら0

「えーと、じゃあ、毎日学校に行く人が100で、毎日うちにいる人が0だとしたら、たまに学校行く人のことはどう思う?」
「その人が毎日行くことを目指しているなら、1日でも行かなかったら0。半分行ったらいいや、と思ってて半分行ったなら100。だけど、目標の半分の半分しか行けなかったら、やっぱり0」

50という概念はここにはないようです。うーん、なるほど、これが彼の思考の世界なのか。

0か100かの世界に30や50,80を作るには

彼を苦しくさせている原因の一つが、この0か100かの思考だろうなと思っています。ちょっとでもダメだったら、0と同じ。ほとんどできたんだとか、半分できたんだ、ということが自己評価につながるようになれば、もう少し楽になれそうなのに。

同じような思考だった当事者のお話を聞いたことがあります。

100でなければ0、という発想なので、100-1は0ですし、0+1も0です。75とか、50があるよね、というのは、周りから教えられてやっと気づきました。今はようやく、0と100の間に25きざみの『セーブポイント』を作ることができるようになりました」

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つまり、セーブポイントがない、あるいは極端に少ないときには、

社会人なのにカゼをひく=自分は弱い人間だ=0 →もう動けん

となっていた。けれども、セーブポイントが増えた今は、

カゼをひいた=75 カラダ弱い=50 →あ、でもまだいける!

と思えるそうです。

そして、セーブポイントができるためには、周り(親)がわかってくれることから始まって、次第に自分でわかってくる実感できることが重要だと仰っていました。

セーブポイントを増やしていくために

次男の場合は、0か100かとはいえ、よくよく聞けば「半分行ったらいいやと思って半分行ったら100」というところまではできてきているので、「これは50ということもできるんだよ」という考え方を、そのつど、聞かせていくのがいいのかもしれません。

あるいは、「別ベクトル」をたくさん立てていく方向を強化する、ということも考えられるかもしれませんね。

いずれにせよ「ここまでは頑張ったと自分を認める」ことができるようになるといいな、と思っています。



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