生命と意志

 休日に家の近所を散歩すると、たくさんの植物を目にする。家から少し歩いたところには公園があり池がある。池の周辺には多くの木が乱立している。森とまでは言えないが、その中に入っていくと短い間だが心地よい気分を味わえた感じがする。そこから出ると通学路に出くわす。通学路の両端は草が伸び放題になっている。草だけでなく桜も植えてあるので、春は桜の並木道となる。定期的に草刈り担当の労働者たちが、音のなる機械で草を一掃していく。その後の殺伐とした光景はあまり好きではないのだが、草はすぐに生えてくるのでその生命力には感心する。と言いつつも、あの草刈り機で雑草を一網打尽にするのは一度やってみたい。駅前に来るとブナっぽい木(違うかもしれない)の並木道が開けてくる。自分が知る限りでは、近所で最も美しい場所だ。以前並木道の傍に備えられたベンチで横になって、風に揺られている木を眺めたりした。葉の隙間から注ぐ光が少しだけ眩しかったのを覚えている。緑と青が細かく複雑に交錯しあう様を横になりながら見るのは悪くはなかった。

 横になるのをやめてベンチに腰掛けてみて、目の前の雑草を眺めると、変な気分になるときがあった。地球の生物史によると生命は一つの細胞から始まり、やがてその細胞は自分の中にミトコンドリアを取り入れる。その後にシアノバクテリアを取り入れた細胞とそうでない細胞が生まれ、前者は植物へと進化し、後者は動物へと進化した。自分が高校のときに履修した理科の科目は物理と化学だったので、生物学の詳しいことはあまり知らないのだが、長い生命史を遡ればもとは同じだったにも関わらず、今ではまったく別の生き物としてお互いこの地球上に存在していることをふと思ったりする。私が草を引っこ抜けばその草は命を奪われたことになるのだが、それで人間である私の方が優位な生物ということになるのだろうか。動物は植物のように自給自足はできない。太陽の光を浴びて自分に必要なエネルギーを自分で作り出すことはできない。だから、自分より弱い生き物を食って生きようとする。植物は動物のように自由に動けないし、意識も持っていない。だが、人間と同じように生命体であるし、もとは同じ細胞から進化して違う道をたどった結果、今私の目の前にある。

 生命の歴史は38億年ほどあるらしい。人間の一生に比べると気が遠くなるほどの時間を経て今の私がいて、目の前の雑草は生えまくっている。木は自分が備えた葉を揺らしながら正午の光を浴びて少し微睡んでいるのかもしれない。たまに雑草の中から花が顔を出している。人間の目を楽しませる色鮮やかな花が地球上に生まれたのは、1億年ほど前らしい。それほど古くはないが、人間よりずっと前から存在していたのは事実なようだ。一つの単細胞から私と雑草が生まれるまでに、長大な時間が流れた。10億年単位というのは、人間の想像が追い付かないレベルだ。それでも今日の科学では事実ということになっている。38億年の間、時間は一直線に一方向に流れ続けたらしい。ただひたすらに過去から現在に向けて直線的に今日まで進んできた。生命が存在するから時間が存在するのだろうか。それとも、時間の方が先に存在していたのだろうか。地球という物質が密集した空間では、一方向に安定して進んでいく時間が生まれるのだろうか。

 生命の系統樹を見ると、過去から現在へと進んでいくにつれて複雑化、多様化していくことがわかる。私の前を猫が通り過ぎていく。猫は邪魔な草をものともせず歩いていく。この辺りには野良猫が何匹か生息している。おそらく餌をやっている人がいるのだろう。人の住むところに猫はどこにでもいる。少し草むらに目を凝らせば蟻が何匹も歩いている。夏になるとこの辺りは蝉がやかましい。蝉のことを考えていると、ウグイスの鳴き声が耳に入った。鳩が高校生の乗る自転車に蹴散らされて散らばっていく。鴉が木の下で辺りを伺っている。そろそろ住宅の残飯ごみを狙いにいくのか。コンクリートの路上をヤモリが通り過ぎていった。路上に迷い込んだミミズが干からびて死んでいたりする。また草むらに目をやればカマキリがいる。もう少し雑草について勉強をすれば草を見る楽しみも増えるのだろうが、そこまで意欲が湧いてこない。

 すべての生き物は生きんとする意志を持っていると言ったのは、ショーペンハウエルだった。あらゆる生命体はなんらかの意志を共有しており、ある方向へ進んでいくという思想には少し勇気づけられる。自分もその大きな流れに乗っているのであり、日常の成功や失敗にこだわらなくていいと思えてくる。だが、そのような高尚な思想に耽ってみたところで、日常の些細ないがみ合い、苦痛、労働は襲い掛かってくる。これらの耐えがたい経験の数々も10億年を超える時間とつながっている。日常から逃れるために、壮大な自然の思想に逃避してみたところで、人間社会の嫌な部分も自然の一部なのだ。旅行で見た雄大な海の景色も、山の頂上から見た美しい風景も、隣に住んでいる奇声を放つ変人も、職場で放たれる罵声も、すべて同じ世界で起こっている。壮大な思想に耽溺することで、自分の中に巣食っている些末な闘争心、恨み、妬み、憎しみは卑小でくだらないものであるという考えに至ることができればいいのだが、私の場合そうはならなかった。むしろ闘争心も恨みも妬みも憎しみも深まったかもしれない。実はそのような些末な感情こそが、大きな流れとつながっているのかもしれない。壮大な宇宙の時空間と地球の歴史が存在しているのは事実だが、腹立たしい隣人が存在し続けるのも事実だ。ショーペンハウエルの思想は痛ましく救いがない。最後に涅槃という言葉を持ち出して、自身が生み出した悲痛な世界観の帳尻を合わせようとした。

 私も草も同じ意志を共有し、同じ時間軸上に乗ってどこかへ進んでいく。まああと数億年もすれば、太陽が巨大化して地球は高温化して生命も滅んでいくらしいので、意志の物語にも終わりは来るようだ。何十億年も一方向へ進んでいく意志とは一体何なのだろう。およそ人間の知性では把握できないもののようだ。私はその朧げな意志の力を感じながら、明日からも偏狭な心で生きていこうと思っている。

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