話し言葉と書き言葉

 人類の歴史において、文字の発明は一つの大きな分岐点と言っていいだろう。文明の歴史を概観すると、人間は時間を制御しようとしてきたことがわかる。時間の空間化を追求することが文明の目的と言っていいのかもしれない。いずれは時間を完全に空間化させて自分の支配下に置きたいと人間は思っているのだろうか。そして、この時間の空間化を目指す欲望は、不老不死を目指す欲望とつながっている気がする。文明は不老不死を目指す。そういうものであり、それを人道的観点や文化的観点を持ち出して批判したところで、文明化の流れは止まらないだろう。文明の発達によって時間を空間化させることが人類の使命であるとするなら、文字を発明させたこともその流れに沿って起こったと考えられる。

 人類は長らく話し言葉しか知らなかった。洞窟に壁画を描いたり、原始的な楽器を用いて音楽を演奏する技術は文字を生み出す前からすでに備えていた。農業を始める前から、人間は絵画と音楽を嗜んでいたが、まだ文字は生まれていなかった。長い間、人間にとって言葉とは話して聞くものであった。空間の世界、物質の世界に言葉は存在していなかったと言っていいのだろう(厳密には言えないかもしれない)。言葉というものは、視覚より聴覚に近いところにある。話し言葉こそが原型であり、書き言葉はある程度文明化してから現れたものだ。文字が出来てから言葉は残り続けるものとなった。言葉が空間性、物質性を獲得することで人間にとっての時空間は革新され、歴史時代が誕生したと言えるのかもしれない。文字が生まれる前から、人間は絵を描いており、すでに絵画の存在は人間にとって馴染みのあるものだった。絵画からいかにして文字に飛躍したのかはよくわからない。絵画が一定レベル以上の意味を含むことによって文字が生まれたのだろう。文字の原型は絵文字であり、アルファベッドより漢字の方が古い形を残していると言える。西側の世界では、シュメールで楔形文字が生まれ、その後フェニキアあたりでシュメールとエジプトの文字が混合して文字が表音化して、次にギリシア文字が生まれ、そしてラテン文字へと続いていくという流れがあったと思う。文字から絵画的要素が失われ、話すときの音に対応した表記へと進んでいくのが西側の世界であったが、東側ではそうならず初期の絵画性を残したまま今日に至っている。中国では、メソポタミアとは別に独自に文字を生み出したのかは今も定かではない。

 日本は、おそらく世界で最も複雑な文字表記方法を採用している。日本人にとって文字の存在は大きすぎるのだろう。日本人が頭の中でものを考えるときは、他国の人々より文字の存在が影響を与えているのかもしれない。日本人は演説が下手だ。日本の政治家は、演説をするときにいつも棒立ちで棒読みだ。演説するときの言葉が死んでいる感じがするが、多分日本語を母語として身に着けるとそうなってしまうのではないか。トランプもオバマも演説がうまい。彼らはいつも身振り手振りを使って大衆に向かって話をする。彼らは話しはじめると自然に身体が動き出す。そして、その身体の動きに伴ってまた言葉が生み出される。全身の動きと、言葉の流れが一体化しており、さらに演説は高揚を増していく。日本語で演説しても同じようにはいかないだろう。日本語で話していると、どうしても文字に邪魔されるところがあるようだ。しかし、こういうことを言うと、中国はどうなるかという話になってくる。中国の政治家の演説は日本に比べるとまだマシだなと思うこともある。中国人は日本人に比べると話すときに文字に邪魔されていないのだろうか。中国人の方が、書き言葉と話し言葉の統一性を持っているのだろうか。日本語のラップがダサいという話は、定期的にネットの掲示板で話題になっている。韓国語も中国語も、日本語に比べるとラップがいい感じに聞こえると自分は思うのだが、これは主観的なものだろうか。日本語は音節が少ない。日本人は、他の国に比べると会話の際に口をそれほど動かしていない。日本語は、書き言葉と話し言葉が離れているのかもしれない。アルファベッドの方がまだ書き言葉と話し言葉の距離が近く、会話の際に言葉の分裂性に悩まされていないように感じる。しかし、またここでアルファベッドの一種であるキリル文字を使っているロシアはどうなるのかと疑問に思ったりする。プーチンの演説なんて、そんなに面白くない。ロシア人で演説の上手い人間をあまり知らない。政治的にタブーだが、演説のうまい国民といえばやはりドイツ人だろう。ドイツ語と言えば、単語を一つ表記するための文字数がやたらに多いのだが、そのあたりが関係していたりするのだろうか。語学のことはまったくわからないが、機会があればまた考えてみよう。

 ソシュールの言語学は印欧語をベースにしたもので、話し言葉の方に重点を置いて論を進めていく手法を取り、書き言葉の影響力を軽視しているということを誰かが言っていた。漢字文化圏における言語学がまた別に必要なのだろう。日本で漫画とアニメが独自の発展を遂げたのは、おそらく日本語の文字表記が関係している。日本語特有の複雑な文字表記方法が、日本語を母語として身に着けた日本人に独自のイメージを頭に植え付けてしまう。同じ漢字文化圏の中国人は、日本人と同じような萌絵を描いているが、アルファベッド系の言語を母語としたアジア系の人々は、幾分現実的な絵を描く傾向にある気がする。書き言葉の世界と話し言葉の世界は別に存在しており、両者は離れたり近づいたりして歴史は進んできた。書き言葉は視覚的、絵画的、空間的、物質的であり、話し言葉は聴覚的、音楽的、時間的、精神的であると言えそうだ。言葉は目と耳の間にあり、空間と時間の間にあり、物質と精神の間にある。前の文章でも同じようなことを書いた。時空をつなげるために話し言葉が生まれ、さらにその流れを進めるべく書き言葉が生まれた。人類史において、時間の空間化は一貫して続いているのであり、文字の誕生もその流れに属する現象なのだろう。ハングルは世界で最も優れた文字だと一部の韓国人は言っているが、一理あるとは思う。ハングルは近代に近い時代に生まれた、わりと新しい文字だったので、文字の読み書きが機能的で合理的になったというのはあるかもしれない。だが、そのために失われる要素もあるのだろうが、それはよくわからない。

 人間はいつごろからか、言葉を話しはじめ、その後絵画や音楽も生み出し、さらにその後に文字を生み出した。文字は画期的な発明だが、文字が生まれる前後で特に人間の肉体に大きな変化はなかった。脳のサイズや形が変わることもなく、身体は同じままであった。人間は、文字を生み出す前から世界の様々な物事を読んでいたのだろう。今も昔も、他人の顔は読むものであり、あまり見てはいけない決まりになっている。相手の顔を見ることは社会では失礼なことだ。そして母国語の文字を見ることは誰でも困難だ。いつの時代も、人間にとっては自然の驚異よりも、仲間内の政治の方が大事であっただろう。台風や地震や津波や獣害よりも、皆から仲間外れにされる方がよほど恐ろしいことだったと思う。

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