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存在によって肯定する。それとも私の個別性によって肯定する。

 主語が大きい文章にはきおつけろと言います。確かに日本人は勤勉だとか、そういうものいいに、違和感を抱くのは無理もないことです。あまりに一般的で本当かどうか怪しいからです。

 三段論法を知っているでしょうか。三段論法とは推論の一種で次のような形で考えていきます。まずは大前提です。大前提は「すべての人間は死ぬ」という命題です。小前提は「ソクラテスは人間である」という命題です。結論は「したがって、ソクラテスは死ぬ」という結論が導けます。

 この三段論法はカテゴリーを前提にしています。私は人間です。ソクラテスは人間です。だから死ぬという結論が出ます。どちらも人間というカテゴリーを前提しています。

 あのコンクリートの上にいるのは猫です。人間は哺乳類です。猫も哺乳類です。刈り取られた田んぼの落ち穂をついばんでいるのはカラスです。カラスは鳥です。人間と猫は哺乳類です。鳥は鳥類です。哺乳類ではありません。そしてカテゴリーをたどっていけば哺乳類は動物に、カラマツは植物に分類され、さらに花崗岩は鉱物に分類され、さらに無生物に分類されます。無生物と生物のさらに上のカテゴリーとは物質です。

 これらをたどったうえに、形而上学的には存在が出てきてもおかしくはありません。ソクラテスはギリシャ人であり哺乳類であり動物であり物質であり、かつて存在していました。

 存在が最上位なのか、それともほかにもあるのか、そういったカテゴリーは何個あるのか、どういうものがあるのか、それは議論は一致しません。ただ存在がカテゴリーの上位にあることが確かめられればいいです。

 ここで「私はある」と声に出していってみます。不思議ですが肯定された気がします。根源的な肯定といっていいかもしれません。存在には肯定があります。存在を否定するとはまさに抹殺することです。存在に至ることによって肯定する。

 存在による肯定は自らだけでなく、駒ケ岳を肯定するにも、使えます。でも逆にすべてが存在によって塗りつぶされているともいえます。私や、駒ケ岳の、個別性はなくなっています。私のいいところも悪いところも、あるいは善行も、あやまちも、存在によって肯定されてしまうのはやり過ぎのような気がします。

 抽象的なものに個別的なもので対抗するのは王道です。存在によるのか、私の個別性による肯定で行くのか、道は一つではないのかもしれません。他に道はないのだろうかと考えれば、同一性に反する差異によって可能であるというひともいるでしょう。結局私はその時時によって揺れているというのが実情のような気がします。

  

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