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2021年5月 『星の時』 クラリッセ・リスペクトル著

 二十世紀の文豪、クラリッセ・リスペクトルの『星の時』はブラック・コーヒーのような小説だ。苦みがきいていて後味が重い。
 ヒロインのマカベーアはリオデジャネイロに住むノルデスチ出身のタイピストだ。社会の底辺で虐げられながら生きる彼女の現実は、この小説を執筆する架空の作者として登場するロドリーゴによって語られる。彼は作家としての葛藤についても独白し、物語に浸ろうとする読者にジャブを放つ。
 美容クリームを食べてみたいと夢見るマカベーアの無知と危うさを残酷なまでの率直さで描きながらも、ロドリーゴは自分が創りだすマカベーアを深く愛していく。お金も知識もありながら悩み多きロドリーゴと何も持っていないのに幸せなマカベーア。正反対な二人は、鋏の両刃のように危険な対となって劇的なラストに向かって進んでいく。
 本書の随所にクラリッセの影が漂う。一九二〇年ウクライナ生まれのユダヤ人であったクラリッセは、生後間もなくユダヤ人虐殺を逃れてブラジルのノルデスチに移住した。幼くして母を亡くした後にリオデジャネイロに移転した生い立ちはマカベーアの素性と重なる。外交官と結婚したクラリッセは長年欧米で暮らしたが『幼少時に見たノルデスチのスラム街が最初の真実であった』と一九六四年に新聞紙上で述べている。同時に社会的不平等に立ち向かう『文学的』手法の難しさについても言及しており、ロドリーゴのモノローグにはクラリッセの生みの苦しみが投影されているといえよう。
 本書初版が出版された数ヶ月後、クラリッセは五六歳でこの世を去る。死因はマカベーアの身体的欠陥として描かれていた臓器の疾患だった。幸福、自我そして死の真実を追求した『星の時』は半世紀近くに渡り世界中で読者の心を揺さぶり続けてきた。
 「この物語は、緊急事態、多くの人びとにとっての災厄のなかで起こる。答えがないので未完の本である。世界の誰かがぼくにその答えを与えることを期待している。あなたがたが?」(本書『著者からの献辞』より)
 一九七七年にクラリスが放ったこの問いかけが日本に届いたのが、コロナ禍の渦中にある二〇二一年であったことに因縁を感じずにいられない。

  1. 詳細は本書英語版Clarice Lispector, The Hour  (2011) , New Directions Ebookの Paulo Gurgel Valente氏(クラリッセの息子)による後書きを参照。

(書評著者)2021年5月講座受講生 青山涼子さんのコメント

初めて書評を書いてみましたが、普段よりずっと深く読み込めた気がいたしました。トヨザキ社長の講座、書評の上達ももちろんですが、読書力アップのためにも続けていきたいと思います。


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