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通信大学とわたし② 玉川大学編(2019年10月~2021年3月)

1.学芸員資格をめざして…

2019年9月に中高社会科の教免を日大で取得。しかし、社会科教員のオファーはすぐには無かった。一方で歴史を仕事にする別の方法についても模索し始めていた。

さかのぼること半年ほど、2019年4月、学校講師のオファーがいただけなかったことから、失業していた。
とりあえず何か仕事をしなきゃなあと思い、ハローワークを見ていると、地元の博物館で臨時職員の募集の求人を見つけた。

「一度博物館で働いてみたかったし、応募してみよう!」


そして採用され、博物館職員として勤務することとなった。

時給は当時のほぼ最低賃金の850円。それでも、歴史に関わる仕事ができていることが嬉しかった。
2019年度は改元の祝賀ムードの中、トランプ大統領(当時)の来日があったりと、今思えばコロナ前の観光盛りだった印象である。そんな雰囲気の中、私の勤務する博物館にも外国人観光客が多数来客してきた。(平日は学校の校外学習かインバウンド客がほとんどであった)

慣れない英語で接客していたが、何とかコミュニケーションはとれた。それがなんだか楽しくて、不器用な私が仕事でこんな楽しい思いができるとは思いもよらなかった。それは自分の適性だけじゃなく、周りのスタッフさんたちに本当に良くしていただいたこともあってである。

そんな博物館のスタッフの中核を担うのが、学芸員である。高い専門的知識を活かして、博物館を運営していく存在である。

この仕事には幼少期からとても憧れがあった。何より歴史の一線で活躍している感じがするし、テレビの歴史番組なんかにも出演している人もいる。

こうした憧れから、とりあえず、仕事になるかどうかは分からないけどやってみよう!という気軽な気持ちで、学芸員資格取得を目指し、通信大学に再度入学することにした。

2.玉川入学とレポートに向き合う

2019年10月、玉川大学通信教育課程に入学した。
なぜ玉川大学を選んだのか。
それは、通信大学合同説明会に参加し、最も自分が学びやすい環境が整っていたと感じたためである。

この通信大学合同説明会、通信大学を少しでも考えている人は絶対参加したほうがいい
なぜなら、無料で参加でき、各大学のブースで担当者と直に入学相談ができる。しかも資料もその場で持って帰ることもできる。主要どころの通信大学は軒並み参加しているので、自分の学びたい分野や取れる資格から複数の大学を比較して入学を検討することができるのである。

一度日大通信を経験した私が重視したポイントは以下の通り

  • Webでレポートが提出できること

  • 単位取得率が高いこと(レポートの不合格率が低いこと)

  • 科目修得試験を受験できる回数が多いこと

  • 学費

まず、一番大事だったのは日大時代に地獄を見た手書きレポートでないこと。あれだけは勘弁だ。そして単位取得率。これは多くの人が気にせず入学しているだろうが、めちゃくちゃ大事なところだ。通信大学はレポートの難しさによってその難易度が劇的に変わる。レポートが通りやすい=学修もスムーズに行ってる人が多いというわけである。
しかし、入学相談などで、「難易度はどれくらいですか?」と聞いても、「先生によります」とか、「通学の大学と同じくらいです」という答えをする大学がほとんどである。私が聞きたいのはそんなことじゃない。レポートが受かるレベルかどうかの1点である。だから、こう質問した「単位取得率はどれくらいですか?」または、「レポートの合格率はどれくらいですか?」と尋ねた。玉川大学の回答は、レポート合格率は初回80%ほど、2回目以降で95%が合格できているとのことだった。
これは安心できるデータである。いくつか大学に尋ねた結果、学費の安さとレポートの取り組みやすさが段違いだろうと考え、玉川大学の入学を決めた。

玉川のレポートは、比較的スムーズに取り組めた。
私自身のレポートの書き方に慣れてきたということもあったが、何よりWeb提出は楽にレポートが出せるし、不合格になってもレポートの添削も非常に的確だった。(直すところが明確)
ただ一つ難点を挙げるとすれば、レポートの添削返却が先生に委ねられており、遅い先生はひたすら遅い。最も遅いもので3か月後に合格で帰ってきたものがあった。「合格してるなら、もっと早く教えてよ…」

日大時代からレポートに取り組む中で気づいたことがある。これは全ての通信大学生に言えることだが

レポートは不出来でいいから、まず出すこと!

かつての私がそうだったように、みんな完璧レポートを作って出そうとする。だから、書く時のハードルも上がるし、取り組むのも億劫になる。
完璧レポート提出の理想はまず捨てるべき。
不合格ありきで、まず出すこと、出すことで道は開かれる。添削という、指南の道しるべがもらえる。これにしたがって直す。一発で合格したなら、それはラッキーなこと。

このマインドが通信大学ではめちゃくちゃ大事だと思っている。そしてこのマインドさえ持てれば、通信大学の学修はガンガン進む。玉川でも最大4回不合格になったレポートもあったが、結果すべて年限内に終わらせることができた。ガンガン提出スタイルは大事だ。

3.博物館実習とアレの到来

2020年2月には博物館実習に参加した。
学芸員資格取得に必須となる実際の博物館で行う実習である。玉川大学には自前の博物館があり(玉川大学博物館)そこで実習を受けることができた。

この実習は楽しかった一方で、学芸員の厳しさも目の当たりにした。

博物館内では、土器をテグスで固定したり、絵画や彫刻数点から展示計画をグループで考えたりと実際の業務に近いものがたくさんあって、ワクワクしながら楽しんで実習をしていた。
一方で学芸員の大変さも痛感させられた。展示や研究などでは実際にモノを触ったり、モノを作ったりもする。手先の器用さはめちゃくちゃ求められると感じた。
私は元来の不器用さを発揮してしまい、どの実習作業でも他の実習生より圧倒的に時間がかかった。業務に対する不安はものすごく感じた。「この仕事は難しいかもわからんなあ…」そう感じた。
しかし、一般の人たちにも歴史や美術に親しんでもらいたいという博物館や美術館の根底にある考えにとても共感していたし、どんな形であれ、博物館・美術館に関わっていきたいと強く思った。この思いは今も変わることがない。

そして、1番気になることを実習担当の先生の1人に聞いてみた。

「今の自分(大学での専攻はスポーツ学のみ)は学芸員になることができますか。」

答えは NO

先生「まず、学芸員には専門分野の研究が不可欠。その専門分野は需要の高さ順に次のとおりである。」

  1. 考古学 日本全国で扱われている。実際にモノを扱う経験が多い。

  2. 民俗・文化人類学 こちらも全国展開できる。

  3. 歴史学 古文書の扱いは多いが、他の選考でもやらないといけない。

  4. 美術など 場所による。

そして、何の専攻も持たない自分が学芸員資格だけを持っていても、ほぼ仕事はないことを知る。

それもそうである。通信大学の学芸員取得課程自体がかなり特殊な取得法であり、通常大学で考古学や美術、歴史などを専攻している学生が取得することがほとんどなのである。

、、、

「じゃあ、私も専攻を持とう‼︎」


ちなみに専攻を持ってない人でも、在野で学ぶだけでは限界がある。そのような人は、学会に入っていて、そこで研究をやっているらしい。

自分としては、まず何を専攻とするのか。そして、それをどうやって学んでいくのか。

この時は不思議と落胆しなかった。それより、次の目標ができたことでそれに向かっていこうという前向きな思いが湧き上がっていた。

実習では、玉川では初めてのスクーリング形式の授業であった。こちらでも、学友たちに恵まれ、学芸員を志す方たちと一緒に切磋琢磨して実習を頑張った。
ちなみに男女比で言えば、2:8 男:女で、平均年齢は30後半から40くらいといったところだっただろうか。当時26歳だった私はかなり若い部類に入っていたように見えた。でも若い人がいなかったわけじゃく、同じ20台の方がグループにいて、その方に助けてもらいながら、なんとか実習を乗り切ることができた。

4.念願の歴史教師とぶち当たったでかい壁

博物館実習を履修していた2020年2月。このときにはすでにコロナの到来が声高に叫ばれており、実習後の2020年3月には、勤務校も臨時休校となった。

そんな私に、チャンスが訪れた。
なんと、某都道府県で地歴の常勤講師をしないかという誘いである。
しかし、配属校は不明…私の心は揺らいだ。教育困難校に配属されたらどうしよう…それでも、目指してきた歴史教師ができるかもしれないというお誘い。
私が出した答えは GO だった。

2020年4月には、地歴の教員として公立学校で働けることが決まった。

3月、私の電話が鳴る。
「もしもし、○○高校ですが、やまでら先生でしょうか?」

○○高校という名を聞いた私は、正直青ざめた。教育困難校ではないが、地区で最も偏差値が低く、多くの生徒が就職する高校である。その高校が悪いわけではないが、正直、高校勤務初経験の人ができる仕事なのか…?

「やれるのか、俺は…?」
やれると言い聞かせ、やるしかなかった。

2020年4月、着任した勤務校へ。
どんな生徒たちなんだろうか?不安が大きい中、初めて生徒たちを見る。

「思ってたより、大人しそうだ」
これが第一印象である。

最初は良かった。4月に入ってもコロナの脅威が叫ばれ、ついに緊急事態宣言下へ。臨時休校下で動画授業を撮影し、配信することで乗り切った。この時は生徒と対面していなかったのでなんとかなった。

しかし、授業がはじまると、そうはいかない。
今まで、3年、いや、それ以上をかけて考えてきた歴史の授業。
もちろん、聞いてくれる生徒もたくさんいた。でも、一部の生徒たちはそもそも学ぶこと自体に興味がない。授業が成り立たなかったわけじゃない。だけど、私がどれだけ面白い、ためになる、歴史の授業をやったとしても、この子たちには、届かない。役に立たせることができない。そもそも、私なんかに歴史教師ができるのか。こんな経験のない私がなぜこんな困難な仕事をしければならないのかーー。

こうした考えを反芻し、自分で自分を苦しめて、私は半年後、歴史教師を辞めた。

それでも、授業を聞いてくれた生徒もいた。彼ら、彼女らのことを思うと申し訳なくてたまらない。今でも申し訳なくて本当に苦しくなる。しかし、私にはできなかった。耐えられなかった。

いくら勉強して採用試験に合格したとしても、こんな苦しみが待っている。(楽しみもあるが)なのに、歴史教師をやる意義は果たしてあるのだろうか。私にはできるのか?

未だに、クエスチョンマークである。
だから今も、できる仕事しか受けない。採用試験もそれ以来受けていない。
授業だけが教員の仕事じゃないだとか、批判ももちろんあるだろうが、これが私の思いだった。

それでも、こんな私でも、なお、歴史に携わりたい―。
その思いだけは消えなかった。
だから、勤務しながらでも、レポートを出し続け、

2020年の10月には学芸員資格を取得することができた。
これは「ホッ」とした。レポートの継続提出は日大時代の経験が活きた。


最短の1年での取得は目標達成であるが、仕事はない。

そんな中、また無職になってしまった―

このままではいけないと思い、2020年9月から2.3か月は博物館・美術館関連の仕事にひたすら求人応募しては落ち、応募しては落ちを繰り返していた。

本場の学芸員は、専門性がないと就職は無理な上、募集が少なく倍率は高い。
かといって、博物館・美術館スタッフは、30代以上のパート女性の応募が極めて多くこちらも高倍率。すでに中高年女性が多い職場にわざわざ20代の男性を入れるのも難しかったのだろう。ある博物館スタッフの仕事は「20代男性であること」を理由に不合格にされた。

たくさんの事業所に不合格通知をいただいた(笑)
その結果、唯一返答をもらえた美術館から学芸員補助の勤務の仕事をいただけた。有難いことである!

期限付きではあるが、ハローワークの失業保険とこの学芸員補助の仕事をしながら、しばらく食つなぐことができたのである。

振り返ってみると、学芸員の資格を取るの自体はレポート慣れもあって、それほど難しくはなかった。
しかし、歴史教師の道は苦しく険しく苦い思いをした。さらに、学芸員の資格を取得しても、仕事はない。
じゃあどうするのかー。


次回、佛教大学編
こうご期待。
お読みいただきありがとうございました。

令和4年12月20日

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