2月17日 スケープゴートにされる【ヤバい】 事細かに説明出来ないと駄目なのか?

晴れ。今日は国立図書館に行き「言語化」について
ヨミダス歴史館を使い調べ物をした。読売新聞内での言語化の使われ方の推移を観察。1980年代後半から90年代前半はあまり「言語化」という言葉は使われていなかったという知見を得れた。まだまだ
「言語化」についての考察は終わらないであろうが、ゲーム界隈に見られる「言語化」信仰の流れを作ったのは「大塚英志」ではないかという仮説を得れた。次に国立図書館に行ったときには「大塚英志」の寄稿文を詳しく調べてみることにする。

 「言語化」について考える時に、私が気にしている言葉の1つに「ヤバい」というものがある。

 「ヤバい」という単語は言語化界隈から忌み嫌われ「ヤバい」や「凄い」という言葉を使わず表現しようとする風潮を感じる。私も昔は「ヤバい」という単語を使う人を見下していた事はあったが、「ヤバい」という言葉ははたして見下される言葉であるのか?何故「ヤバい」を使わないほうがいいという考えが広がったのかもう一度考えてみたいと思う。

 まず「ヤバい」という言葉が持つ意味が広大であり、喜怒哀楽を説明する時に「ヤバい」の一言で片付けられる事で感情の機微を説明出来ず、大雑把な理解に留まってしう事が問題としてよく挙げられていることであろう。確かに、嬉しい時も悲しい時も「ヤバい」の一言で終わらすとどうしても締まりが悪いと感じるのはわかる。だがコミュニケーションにおいて感情の機微を正確に伝える必要があるのか?そこを考えるべきなのかもしれない。
 そもそもコミュニケーションにおいての正確な意思疎通というのは不可能であり、必ず何処かで誤配が起こる物であるというのが私の考えである。
 それでもなるべく誤配を少なくするために細微な感情を伝える事で誤配する可能性を減らすという意味で「ヤバい」を否定するのであれば、それは傲慢の一言で終わり、言語というものを盲信し過ぎではと言わざる終えない。

 私がここまで読みやすくもせず、適当な文章をダラダラ書いていると何が言いたいのか分からないように、言葉を何百と連ねた所でここまで読まない人いるであろうし、ここまでの900弱の文字を用いて文章を書いているが言いたいことは「ヤバいって言葉はそんなに悪いの?」程度の理解をしてもらえれば十分ではないだろうか?
 それを事細に説明することが大事であり、伝わる事が重要であるとするのであれば「ヤバい」という言葉を使うほうが伝わるのではないか?そう思うことが多々ある。

 結局の所「ヤバい」という単語を多用すると知的に見られにくいという話であり、知的さ言い換えるなら自分の有能さを誇示するには、「ヤバい」という単語を控えよという事ではないか

 「ヤバい」という言葉を忌み嫌う理由はシンプルに賢い見られたい欲求が強くなったせいであり、「ヤバい」という言葉をスケープゴートにして批判し自分の有能さや知的さを喧伝する道具に使われているのが実情ではないだろうか?

 ではなぜ私が「ヤバい」と言う言葉を再評価することになったのかというと

  1. 包括語であるという点

  2. 対等な言葉であるという点

  3. 共感語であるという点  

この3つの点から説明していこうと思う。

 まず1つの包括語であるという点であるが、
包括語という名の通り、様々な意味を持つ言葉ということであり「ヤバい」という言葉であらゆる事を述べられるのであればそれで問題はないと感じるからだ。「ヤバい」という言葉を批判する人はいるが
「ヤバい」の使われ方を思い返してみると

  • 「大谷翔平ヤバすぎでしょ」

  • 「3日も風呂入ってないってヤバすぎでしょ」

  • 「SMAPのコンサート行って中居くんと目があったんだけどヤバすぎない?」

というように、「ヤバい」を使用する時文章とセットで使われることがほとんどではないだろうか?
 コミュニケーションという点で考えればむしろ「ヤバい」という事を使うほうが円滑に進むと考えても良いかもしれない。

 次に対等な言葉であるという点であるが
「ヤバい」は包括語と説明したが、「言語化」という言葉もまた、包括語ではないか?というのが私の考えである。
 ならばなぜ「ヤバい」は肯定し「言語化」を嫌うのかといえば、「ヤバい」は発話者と聞き手が対等な立場で話せる言葉であり、「言語化」という言葉は発話者と聞き手が対等ではなく、発話者が上になるという構図を持っていると感じるからである。
 
 「言語化」を多用する人は言葉を用いて
自分を知的さや有能さを喧伝しようとしていると述べたが、言葉の使われ方次第で上下関係が出来るような言葉を何故称えなければならないのか?
 SNSを観察すると「言語化」出来る人間はそれだけで称賛に値すると言いたげな雰囲気を感じる。
 詐欺師のようにペラペラある事ないこと適当に「言語化」しその発言は果たして妥当であるのか?という確認作業を放棄し、「こういう事もあるよね」と昔は馬鹿にされていたポエムのような事を発言して、「言語化」と言い換える事によって、
「言語化に苦心した人たちが気づきあげてきた言語化とは別であるはずの内容をさも、言語化と括れば同じなので私も凄い言語化出来ると人を騙し」自分のポエムも哲学者や言語学者小説家と同等であると喧伝する詐欺師達がSNSで跋扈しているのが今の現状である。
 言語化というのは、包括語として扱えば
「ヤバい」も「言語化」も同じカテゴリーにはなるが、内容はまったくない違うという事を理解していただきたい。
 このように、「言語化」というのは表現することによって称賛を得たいという言葉であり、その際に
発話者と聞き手が対等ではないのは明白だろう。
 そのような上下関係を生む言葉ではない「ヤバい」というのは実は良い言葉ではないかという話である。


 最後に共感語であるという点であるが、
包括語であるという点と立場が対等であるという点で説明した部分と被る部分はあるが、
「ヤバい」という言葉自体は「内容を伝える言葉」というより「共感すること」を重視している単語であるという点である。
 「ヤバい」では相手には伝わらないからこそ言語化しよう等とほざく輩がいるが、そこで見落としていけないのは、「ヤバい」を発言した際の声色も判断材料になるという点である。
 会話をする際に「言葉の内容より声色で感情を判断する事のほうが多いのではないか?」
 好きなアイドルに会って感極まるような状況で声色高く「もう無理死ぬ」と言えば「死ぬほど嬉しかっただろう」と解釈するのが妥当ではないか?

 相手の気持ちを推し量るのに重要なのは
「ボディランゲージ」や「声色」であり様々なメッセージを総合して「相手の気持ちを汲み取る」のがコミュニケーションなのではないだろうか?
 それを「ヤバい」ってなんだ意味の追求をするのはそもそも妥当ではないと言いたい。

 その点「ヤバい」と発話する時の主な目的は
「共感したい」という気持ちは汲み取れるのだから
そこで終わらして「共感することを重視するべきではないか?」そのような点で「ヤバい」という単語は使い勝手の言い言葉なのだと思う。

 私は「言語化」し講釈を垂れる人間より「ヤバい」を多用して「共感」を重視する人間と話していきたいとつくづく思う。

 

 


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