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青色紫陽花

 仕事帰りのトワイライト、この季節の夕暮れは夜未満のほの暗さ。ひんやりと風が吹いている。
 神社公園は神社の森のおかげで、周囲より暗さが増している。
 蚊取り線香のにおいがしてきた。晩秋の蚊は吸血旺盛だ。
 公園の防犯灯は、遊具や低木につまづいて転ばなくてすむ程度の明るさで、夜にとけこんでいく。 
 そんななか、花壇のすみでしゃがんでいる老婆が白っぽく浮かび上がった。
 思わず悲鳴をあげるシチュエーションだが、レギュラーな風景なので、「こんばんは」ですむ。
「こんばんは」
 まさこさんはしゃがんだままこちらを向く。それもいつも通り。白髪染めをやめて半年ほどたった髪を、きっちり結わえてシニヨンにしている。
 軽く会釈して通り過ぎる。それがいつも通り。
「ちょっと、アンタ」
 まさこさんがおいでおいでをする。
 イレギュラーなお誘いに、脱兎と逃げそうになった。わたし急いでます。晩ごはんもまだです。おなかすいてます。トイレに行きたいかも。
 後期高齢者を一〇年ほど生きてきたまさこさんは、四分休符の安定した形でしゃがんでいる。
 しかたがないので、まさこさんの横にしゃがむ。中学、高校のバレーボールで痛めた膝がさっそく痛がる。すっかり怠けた足の筋肉は、明日の朝には筋肉痛を訴えるだろう。
「わたしね、明日引っ越しなのよ」
 まさこさん、なまえだけしか知らない。住まいも家族構成も知らない。こういう時の気のきいた返事って、なんだろう。
「たいへんですね」
「ひとり暮らしの老人の引っ越しなんて簡単なもんよ。わたしね、五五歳のときに主人を亡くしたのよ。それから三〇年、ずっとひとり暮らし。らくでいいわよ」
 よっこらしょ。
 まさこさんは膝をなでたり、腰をさすったりしながら立ちあがって、ゴミ袋を地面にとんとんと弾ませて袋の口を結んだ。
「これね、紫陽花の枝。剪定したの」
 少し腰を屈めて、「キィちゃん、ドリィくん、ソラくんにワイトくん」と指差した。セキセイインコの墓標だと言う。
 剪定されてすっきりした紫陽花の根元を守るように、握り拳ほどの形のいい石が四つ、囲んでいる。
 わたしは黙ってうなずいて、まさこさんの手に触れた。わたしの手にまさこさんの手が重なった。手のひらと手のひらが触れているようで触れていないようで。そんなふうに重なった。
「ワイトくんが亡くなったので、家を売って老人ホームに入ることにしたのよ。ワイトくんは十三歳だった。セキセイインコとしては長生きしてくれたよ」
 セキセイインコたちは庭のバラの根元で眠っているのだそうだ。キィちゃんはザ・ピルグリム、ドリイくんはグリーンローズ、ソラくんはブルーヘブン、ワイトくんはジャクリーヌ・デュ・プレ、それぞれ色にちなんだバラの下で眠っている。
「家を売るから、墓標の石だけ神社公園へ置くことにしたの」
 まさこさんのバラに関するレクチャーは十分、もしかしたら十五分ほど続いた。
「猫と暮らした年月が長かったけど、五十を過ぎたときからセキセイインコを雛からさし餌で手乗りにして、いっしょに暮らし始めたんだよ。わたしが死んでも、インコなら鳥籠ごと誰かが引き取ってくれると思ったわ。娘たちにもそう頼んどいたしね」
 ふう、とため息をひとつ。
「長女は家に来いってうるさいけど、ひとり暮らしに慣れすぎて、ひとつ屋根の下で誰かといっしょに暮らすのは無理ってもんだわ。たとえ娘夫婦と孫とでもね。でも歳を考えるとねぇ。娘が心配してわたしの様子を見に片道三〇分を自転車で通って来るんだもの」
 うふふと笑って、まさこさんは一〇リットルのレジ袋を逆さにした。黒っぽいふんわりしたものが、紫陽花の根元にこんもりと山をつくる。それを優しく広げていく。紫陽花の根元と四つの石がその中に隠れた。
「これはピートモス。土を酸性にしてくれる。来年もまた青い青い紫陽花になるわ。わたし、紫陽花は青が好き」
 元気でね、と言葉を交わし軽くハグしてわたしたちは別れた。剪定した紫陽花の枝が入ったゴミ袋はわたしが持って帰った。

 それからは夕暮れ時の神社公園にまさこさんはいなくなった。
 まさこさんはきっと知多か志摩で、毎日オーシャンビューを堪能しているのだろう。そんな気がしていた。

 冬がおわり、桜が散って、藤も散って、紫陽花に色が差しはじめた。
 代休をとった日の昼下がり、青い紫陽花を見ようと寄った神社公園にまさこさんがいた。

「あら、久しぶりね」
 まさこさんが暮らすホームは、神社公園から歩いて十五分ほど。地下鉄の駅のそば。
 近い!
 わたしは笑った。去年の秋、最後の別れと思ってしばらく喪失感にくれていたのに。
「アンタも気をつけなさい。ひとり暮らしに慣れると、ひとり暮らしが癖になっちゃうわよ」
 まさこさんはそう言って、わたしの背中を力強く叩いた。

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