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千年大祭

 雪がふっている。
 ひろを眠らせ、ひろの屋根に雪ふりつむ。
 声にださず、つぶやく。きっと太郎も次郎も眠っている。ふふ、とかすかに微笑んで、高木ひろは眠りのとばりに包まれていく。
 しんしんと雪がふる。しんしん……と。
 寝返りをうち、眠りに落ちる。

 揺らいだ。
 高木ひろは眼を見開き、天井を見つめた。
 日付は変わったが夜明けはまだ遠い。夜の中を車が走っていく。タイヤチェーンが道路の雪を蹴散らしていく。
 ひろの脳を深く睡眠に落としこみ、身体を起こす。
 つけっぱなしのオイルヒーターが部屋を暖めてはいるが、ひろの身体を冷やさないようにエアコンの暖房も入れる。どうも人間の身体は冷えることに弱いようだ。
 靴下をはきパジャマを脱いで、防寒にぬかりのないように服を重ねて着る。六三歳というひろの年齢を思うと身体も眠らせ休ませたいが、たまのことだ、ひと晩ぐらいの徹夜ならどうということはないだろう。わたしはひろ以上にひろの身体を大切にしている。
 電気ポットで湯を沸かし、お茶を用意して、雪の中をやってくる青山史郎を待つ。青山が踏む雪の感覚をいっしょに味わう。キュッキュッと雪がきしむ。青山め、ボアブーツを買ったな。
 大石神社の氏子総代、青山史郎が鳥居をくぐる。まず社殿に手を合わせ、それから社務所へいく。
 ほどなく玄関戸が乾いた音をたてて開いた。
「ひろ、起きてるな。あいかわらずこの家の戸は閉まりが悪い。抵抗しやがる」
 青山は苦労して玄関を閉め、たたきのガスストーブをつけると、上がりかまちに座布団を敷いて腰をおろした。どっこいしょ。立ち居振る舞いにどうしても七五歳の年齢がでる。 
「勝手につけるな。ガス代は高い。ひろがやり繰りに困る」
「客は暖かくもてなせよ。青山は寒がりなんだ」
 ひろは大きめのマグカップふたつにたっぷり煎茶をそそぐ。ひとつを青山にわたし、並んで上がりかまちに腰かけた。二人ともずりずりと茶をすする。日本茶専門店を勤め上げたご隠居、青山が満足そうに喉をならす。
「雪は?」
「やんだ」
 ひろと青山が上を向く。
「やはり、来るね」
「うん、来る。間もなく通過する。カウントダウンでもするか?」
 青山がにやりとする。
「したけりゃ、しろ」
 車が走って行く。遠くないところを救急車が通っていった。
「通過した。正確だな」
「ああ、ぴったり真上だ。これだけ真上を通過されると偶然とも思えないが、揺らぎから十五分たっていない。軌道を修正する時間はないだろうに」
「では、今夜の揺らぎを計算したんだ」
「つまりだ、いままで起きていた揺らぎを察知し、そこから今夜の揺らぎを計算したということになる」
 ふふん、ひろが笑いともため息ともつかない息をもらす。
「いったい何を感知したんだろう。そこに何もないことを、か」
 ひろは黙って考えた。青山が大きくうなずく。
「揺らぎのもとは、われわれか。何もないはずの地下深くでなにものかが揺らぐ、それを異常と感知したんだね」
「人工衛星の頭上通過など、偶然の出来事にしておきたいよ。婿殿が衛星の正体を調べてるんだろ?」
 ひろはうなずく。「まったく腕のいいハッカーだよ、江口健太は。彼の頭脳はコンピューターが大好きだからな」
「ひろの娘は上等のリクルーターだ」
 笑いながら青山は立ちあがり、茶を飲みほす。マグを座布団の横に置き、両手を腰にあて、なだめるようにさすった。後期高齢者になったとぼやくだけの身体ではある。
「開けるときは素直な戸だ」
 からからと戸があくと、冷たい外気がさっそく部屋をめぐる。「さて」と言いながらひろも腰をあげた。ひろもまたなだめながら腰を伸ばす。
 ひろの身体を使いながら、ひろの身体の手当をしてやれない。こういうとき、わたしは無力感を感じる。いつのまにか、無力感などという感情まで知るようになってしまった。もうわたしを人間と定義してもいいのではないか、と思うのだ。
 こんな雪の朝にもこの大石神社を参拝にくるものはいる。日課とはそういうものだ。中毒性すらある。参拝にくるものは年寄りが多い。すべって転べば一大事だ。
 早朝に参拝に来る人間の澄んだ心に出会うのは、うれしいことだ。
「凍らないうちに雪かきをする。手伝っていけ」
 ひろの誘いを青山は苦笑いで引き受ける。さすがに外は寒い。
 雪がつもったといっても名古屋市中心部のこと、二センチほどの積雪は竹箒ではいて、歩道と参道に歩きやすいだけの通り道をつくっておけばいい。
 雪はささやかな鎮守の森の木々にもつもり、微風が風花を舞わせる。そうでもない風がすこしでも強く吹くとばさりと雪が落ちる。
 頭に降りかかった雪のかたまりを、首すじに落ちないように気をつけながら払い、ひろと青山は空を見上げる。
 タイミングがよければ通過していく衛星が見られるのだろうか。よほど空が暗く、よほど空気が澄んでいれば。
 朔に向かう月が東にかかり、すっかり晴れた暗い空に見えるのは三等星までがいいところか。夜明け前、気温が下がってゆく。しんしんと冷える。

 
 バトル・フィールド、離脱。もうほんとにこれっきり、ゲームはやめよう。父親の自覚ってのを持たなきゃ、だよ。さぁてと、竹箒を持ってきて境内の掃除でもするかな。竹箒はけっこうスイッチがはいるアイテムだったりするよな。
 江口健太はオフィスチェアの背もたれに体重をあずけるように伸びをした。背もたれがミシミシと抗議の声をあげる。
 健太は、いまの自分の恵まれすぎな立場を思うと、身も心も足までもすくむような感覚を覚え、それこそすくみ上がるのだ。
 パソコン用に事務椅子が欲しいと言えば、姑は十万円もするオフィスチェアを買ってくれようとする。あわてて最寄りの中古屋へ走って、その十分の一ほどの値段の椅子を買ってきたが、それでも一万円もするものだった。健太の経済感覚からすると、そんなの椅子の値段じゃねえ、なのだ。
 高木美緒、高嶺の花だった高校の同級生と結婚するなんて、世の中予想外の出来事で動いているとしか思えない。
 高校を卒業したらコンピューター関係の専門学校へいって、システムエンジニアになるつもりでいた。けれど美緒を手に入れたい一心で神道系の大学へ行き、神職の資格をとった。よくそんな気になったもんだと自分でも不思議だ。なにごとにも中途半端で、軟弱なおれが、だ。
 しかも美緒に子どもができた。おれの子だ、おれの子。すっげえ。
 襖があいて、江口健太は振りむいた。
 ひろが立っていた。

「衛星はどうなってる?」
「地球のまわりを回ってるよ」
 ひろは眉をあげ、健太は口をへの字にした。
「姑だからって、上からものを言うな」
「いや、それはおまえが婿気分で下から見てるからだろう」
 顔を見合わせ、ふたりとも笑った。三秒ほどで笑いのスイッチがオフになり、ひろと健太の眉間に険しさがうっすら浮かぶ。
 健太の指がキーボードを動きまわり、パソコンのモニターいっぱいに地球と、地球に群がる無数の人工衛星を白い点で表示した。たくさんの白い点のなかに、青い点がひとつある。 
「日本の地下資源探査衛星だ。……だった。現在はデブリのはずだが、機能停止なんてのは仮面だろう。大気圏へ落ちて燃えつきもせずに地球を回ってるからな」
「何の情報を集めていることやら。明日の未明にやはりここを通過するのか」
 ひろが顎をしゃくって人差し指を天井へむける。
「正確に横切ってってくれると思うよ。マントルに近い地殻に空洞があって、それが揺らぐというかかすかだが大きく震えるなんていうのは、案外目立つのかもしれない。しかもここ十年、揺らぎの回数が規則正しく増えている。一年に一度、二年で三度、一年に二度、という具合に、名古屋のどまん中で。それまで何の異常もなかった場所で。それはやっぱり見つけられるよ」
「だけどここへはどこからも調査に来ていない」
「調査するためのネタを集めてるんだろうね」
「やれやれ……」
 ひろは気楽さをよそおったわりには深刻な顔で、肩をすくめて出ていった。玄関のあく音がする。境内の掃除をするのだ。

 たくさんの人工衛星に取り憑かれた地球の画面が戦場にかわり、健太は頭を軽くふり眼をしばたかせた。戦場離脱などと自分に言い聞かせてみたものの、とにかく今日はもうゲームをしないというところまで決心がにぶっていた。
 そうやってだんだんやめていけがいいさ。
 パソコン画面を戦場からグーグルにかえて、健太も境内の掃除へむかう。大石神社の神主としては境内の清掃は基本中の基本だ。
 社務所へいく途中、社殿の地下へつながる廊下を見まわるのも日課だ。廊下へ一歩踏み出すと、とつぜん空気がかわる。きりりと清浄で、ひと足ごとに床板のきしむ音が時間をさかのぼっていくようで厳かなのだ。それは怖さと背中合わせで、背筋がぞわぞわしてくるのが、健太は好きだった。
 みしりと足音がかわる場所がある。そこは板と板に境目にすきまがあり、足にひんやりした空気を感じる。社殿が平穏なのを確認してから、廊下のそこに今日もしゃがみこむ。毎日観察していて何の変化もないのだが、楽しい。何か仕掛けがあって、板の下には納戸のような部屋があるのではないかと思っている。
 きちんと調べてみよう。
 美緒はともかく、義母も大石神社の歴史についての詳細をよく知らないようなのだ。これは自分の仕事だ、と健太は思う。
 今日はまず、掃除だけどね。
 外へでると、桜の下で竹箒を使っていた美緒の眼が健太をみとめて微笑んだ。
 唇をとんがらせて、桜の花びらをはき集めている。
「神社の森なんて、花の咲かない常緑樹ばかりだといいのに」
「残念でした。年中緑の木でも、葉っぱは落とすんだよ。常緑樹は木の種類で葉っぱの寿命が違うんだ。寿命がきた葉っぱは落ち葉になる。だから常緑樹ばかりだとしても落ち葉の掃除はついてまわる。それに常緑樹だって花も咲くし、咲いた花はやっぱり落ちるしね。木と落ち葉の掃除はワンセットなの。けどさ、美緒はいま大事な時なんだから、掃除はおれがする。美緒は休んでなよ」
 うん、と美緒は積極的にうなずく。
「甘やかしちゃだめよ、健太さん。普通に動いて働けば安産できるって、昔の人は言ったものよ」
「昔の人って、かあさんもいいかげん昔の人じゃん」
「あのねぇ……」
 お説教しかけて、ひろはため息と苦笑いで黙った。代がかわったのだから。
 石神神社の桜は山桜にちかい品種のようで、ソメイヨシノがおわったころから咲きはじめる。
 満開だ。
 ひろは、物置から古い箕まで出してきて掃除をしている若い夫婦を見ながら、心を痛めていた。
 ひろは五歳で父親を亡くしている。父親の顔は写真でしか知らない。ひろの母もまた、父親を生まれてすぐに亡くしていた。祖母もそんな話をしていた記憶がある。この家の男たちは若くして死ぬ。
 健太さんはどうなのかしら。
 そう思うと心がうずく。孫も幼くして父親を亡くしてしまうのだろうか? 孫は女の子だろうか? 男の子だろうか? 男の子だとしたら若くして死んでしまうのだろうか?
 わたしより先に?
 だけど、とひろは思う。もし孫が男の子だったら、この家の運命も大きく変わって、健太さんは長生きするかもしれない。すくなくてもここ三代、この家は女系だった。
 けれど、とまた思う。そうしたら美緒が若くして死んでしまうの?
 ひろは長い長いため息をつき、地面に貼りついて箒でとれない桜の花びらをつまみあげた。
 わたしのこの悲観的な性格、なんとかならないものかしら。
 氏子総代の青山史郎が鳥居をくぐってくる。右手に持ったビニール袋をみせびらかすように持ちあげて軽く振る。
「桜、散ったね」
「あら、松月の袋。あやめだんごかしら。いつもありがとう。健太さん、美緒、三時にしましょうか」
 青山はうなずいて、「お茶はわたしがいれるよ」と〈社務所〉と木札のかかった母屋へ勝手にはいっていった。

 太陽が近くなってきた。磁場が変だ。黒点が変だ。太陽風が弱い。
 木星を離れ、火星軌道をも通りすぎた。太陽の引力のままにわれわれをゆだねた今、あの場所へ、われわれの場所へ、小さい惑星たちの軌道へもどることはもう決してない。
 地球が見えてきた。
 地球、われわれはいつの間にかあの惑星を地球と呼んでいる。あの星はわれわれを惹きつける。そしてわれわれは、人間の影響を強く受けるのだ。
 人間のように思考し、それを是としている。
 思考することを知ったのも、さきにあの惑星に降りたったわれわれがわれわれにもたらしたものだ。
 思考することがいいことなのか、そうではないのか。だがもうわれわれは思考をはじめてしまった。だから是とする。
 思考がわれわれに教えた、われわれは小惑星群なのだと。かつてそこにあったものたちの、形なき姿なのだと考えついた。
 われわれはなにものなのだという問いに、われわれが見つけた答だ。
 

 ひろは眠っている。健太も美緒もそして青山も。そうだ、夜は眠りの時間だ。そのための闇だ。
 ひろの睡眠も夢の眠りと夢のない眠りをくりかえし、脳は疲れをいやしていく。
 だが今夜、ひろの身体は眠らない。こたえるだろうな。
 日付が変わる。
 今夜もまた揺らぎがおきるとき、衛星が通過してゆくのだろう。
「十二時をすぎると頭がさえてくる。けど、二時をすぎると猛烈に眠たくなってくる。三時以降は心身ともに朦朧だな。ああ、肩がこる」
 青山は首をまわし、ついで両肩を後ろにそして前にまわす。「歳はとりたくないものだ」
「青山の余命はあと十年なんだろ。ガンバレよ」
「そういう健太はおれより二年早く死ぬんだろ。どうするんだ。もどるのか、誰かさがすか? それとも……」
 青山は美緒の腹に右手をあてる。「この子に移るか?」
「いや、地下へもどる。美緒が見つけてきた健太の頭脳を使うためだけに上がってきたんだ。衛星に注意するためにね」
 美緒はふふんと鼻をならした。美緒が眠っているとき、美緒はほとんど言葉を使わない。
「われわれが人間を使うことで、人間の個までもとりこんだのだろうか」
 ひろに三人が同意する。
「揺らぎの計算と情報を得るためにも、健太のIT好きは格好だったわけだ、な、美緒。だがまだ人間は揺らぎの兆候に気がついていないようにみえる。もっともトップ・シークレットで一般人にはアクセスはもちろん、存在すらないことになっているどこかで見つけられているのかもしれないが、そもそも揺らぎはわれわれには一大事でも、人間にとっては危惧にはならないのかもしれない」
 健太が美緒の腹に手をあてる。「それにこの子にはひろが移るんだろ」
 ひろはあいまいに微笑んで首をかしげた。
「ひろとともに終わるんだな」と青山が言う。「まあ、好きにすればいいさ。おれも青山とともに死のうと思ってるんだ」
「われわれに死はあるのかな。死が消滅なのか、ただたんに地下へもどるだけなのかわからない。何十万年も人間のなかにあって、まだ人間といっしょに死を迎えたものはいないよ。依り代の人間と深く同化して、ともに死ぬつもりでいたものも、その人間に死とともに地下のわれわれのもとにもどってしまっている。まるで傷でも癒やすかのようにしばらくわれわれといて、また人間のなかへいってしまうんだ。浮気性といえば浮気性だよ」
 健太はにやりと笑う。
「人間の人生は興味がつきないね。健太とともにいて実感している。だからわれわれのおおくが、死を選ぶよりも別の人間の人生に移って別の人生を見ていくことにするんだ」
「地下に残っているわれわれは、こうして人間とともにいるわれわれの思考を共有しているから、あえて地上に暮らす必要をもたないと……」
 と言った青山は「青山とともに終わりたい」とつぶやいた。
「感覚と体感の差は大きいのにな」ひろのつぶやきは聞こえないほどだった。
 言葉がなくなると、夜の音が聞こえてくる。
 時計が秒をきざんでいる。夜中を走っていったあの車はきっと速度違反をしている、速すぎる車の音。遠ざかっていく救急車。
 青山が湯をわかす。青山が眠っていても、青山は青山だ。お茶が好きだし、お茶をいれるのも好きだ。青山はひろがマグカップにお茶をいれるのは好きではないようで、勝手知ったる他人のお勝手で、勝手に煎茶のための器を使っている。

 午前三時をすぎて、四人が上をむく。四人の眼がみているのは天井の杉の木目だ。しかし四人は五万キロのはるか上空に到着したわれわれを感じていた。
 何もないそこには、たしかにわれわれがあって、日本の上空五万キロの超高軌道上にいた。
「おっ」と青山がつぶやき、「あっ」とひろが背筋をのばす。健太と美緒はもたれあってうとうとしていたのか、面倒くさそうに閉じた眼をかるく指圧しながらあくびをした。
「やることが人間っぽいな」
「うかつにも居眠りしちゃうところなんかもね」
 健太が言い訳がましく言うが、眼は厳しくひろを見てうなずいた。美緒の表情もひきしまる。
 上空のいるわれわれから、一部分が離れた。
「地球へ降りてくる」ひろは眼をとじた。
 地球をはるかな遠巻きにしたそれから離れたわれわれの一部は、引力に身をまかせるかのように下降しはじめている。
 ひろは奇妙な懐かしさのなかにいた。
「地球から感じていたなにかを、もっと近くで、その場所で感じたいと、われわれはわれわれから別れて地球へきた。きて、降りた。よく動く地表の四つのプレートに近い場所へ降りた」
「もう七〇万年、七八万年にもなるんだな。昔昔のことだ。」
 青山が両手を追い払うように動かす。「おまえは寝たほうがいい。まだ不安定な胎児だ。身体をいとわなければいけないよ」
 美緒はにっこりうなづいて、自分の部屋へいった。
 ひろはふと、いま目覚めている美緒はどちらなのだろうと思った。美緒と美緒のなかにいるわれわれと、同化しているのではないか。あり得るだろうか? それならばわたしとひろもいっしょになれるのかもしれない。

 四月のなかばの夜空が青みがおびてきた。肌寒いが震えるほどでもない。ひろと青山、健太は境内に並んで立ち、空を見上げ、衛星の通過を待つ。
「な……」
 上空で起きていることに言葉を失った。どんなに眼を凝らしても、見ることができないことを目の当たりにしていた。
 ここにいる三人だけではない。地下から地上へ出て、人間のなかに棲まいながら、宿主の人間とともにあちらこちらへ散っていったわれわれもまた、激しい驚きのなかにいる。
 ひろはわれわれが思考を共有していることを一瞬でも忘れていたことに気がついた。
 わたしはいつの間にか小さく個にかたまって、人間と同じように壁のなかに閉じこもってしまっていた。ひろの居心地がよすぎるのか。
「なんで、こうなるんだ?」
 健太の当惑が濃くひろに、青山に、われわれのなかにしみとおる。
 上空のわれわれがなしていること、実体をもっていないはずのわれわれが人工衛星を大気圏へ落とそうとしている。
 なぜだ? われわれに重さはない。大気のようにさまざまな気体を内包してはいない。われわれはわれわれという意識だけで、ほかには何もない。計測できるものは何もない。だから力などない。
 ではなぜ衛星を大気圏へ落とすだけのものがあったのだ。
 わたしだけだろうか? ひろはたじろいだ。自分がすっぽりヴェールにくるまれているようなのだ。薄いその一枚が自分と世界をわける。薄いその一枚の心地よさ。
「わたしもそうだよ。健太も美緒も、たぶんともに地球へ降りたったわれわれすべてがそうなってきているのではないかな」
 青山の声はわたしの思いだ。
 ゆっくりと落ちはじめた人工衛星は、じょじょに落ちる速度を速めていく。熱を持ち、燃えはじめる。
 三人は鳥居をくぐり、参道から歩道へでた。ささやかといえど鎮守の森の木々は空を隠している。
 暗い空。明るい星だけがまたたく。眼では見られないだろう人工衛星の通過を待つ。
 揺らぐ。
「あ……」ひろの声がもれる。
 かすかな線をひいて星が流れた。
「……落ちた」
「公式には遺棄された人工衛星だ。大きな騒ぎにはならないだろう」健太が言う。
「それですむのかな」
 少し背中を丸めた青山が後ろで手を組む。
「すむさ。あの地質調査衛星が地下三〇キロに空洞を発見したからといって、名古屋のど真ん中をボーリング調査をするとは思えない。もしわれわれの空洞が感じた揺らぎを検知したのだとしたら、その調査はもっと別の方法で大規模なものになると思わないか?」
 そうだなとうなづき、「うちに帰って寝るよ」夜明け前の道を青山が帰っていく。
 車が法定速度を無視して走っていく。夜明け前でも街の闇は薄い。
「わたしはこのまま境内を掃除するよ。神主の勤めだ。ひろは寝ろ、トシなんだからさ」
 ひろはうなずくと、肩を丸めいて、もたもた歩母屋へはいった。とつぜん十歳ほど歳をとったような後ろ姿だった。

 ひろを眠らせる。
 疲れがたまっているからね。今日はこのまま陽が高くなるまで寝坊するんだ。美緒も健太も起こしにこない。老境の身体に徹夜はこたえただろう。
 ひろの身体を抜けでるとき、その心もとなさにわたしはたじろいだ。うまく地下のあの場所へ行き着けるのか、とさえ思い不安になった。
 心配は杞憂だったが、このような感情は人間のもの、われわれのものではなかったはずだ。
 意識を地下深く、われわれの場所、われわれを思うだけで、瞬時にわたしはわれわれのなかに在った。
「われわれが破壊行為をしたことに、わたしはショックを受けている。遺棄されたものであるのか、あるいは遺棄の仮面をかぶって何かの作業をしていたものなのか、さすがに健太の腕ではハッキングはできなくてわからなかったにしても、あの衛星は活かされていた」
 われわれが衛星を大気圏へ落としたことがショックなのか? そうではないだろう。あなたのショックは……。
「確かに、揺らぎの直後に頭上を通過していく地質探査とされる衛星に、わたしは神経質になり危機感をもった。わたしの危機感がわれわれを呑みこんでしまったのではないか」
 まさか、そのようなことはない。われわれは面倒を予想したのだ。破壊行為ではない。あの衛星の落下時期を少々早めてやっただけだ。落ちていくための少しの助力をしただけだ。あの衛星の空洞検知を看過しつづけると、われわれのこの場所がたくさんの注目を集めることになる。
「いずれ人間は揺らぎを知るのだろうか」
 われわれが見つけられることは好ましくない。
「わたしは人間とともにいた時が長すぎたのだろうか」
 時間の長さが問題ではないんだよ。あなたが個を囲みすぎたのではないか。いつの間にか、そうと気がつかずに。けれどそれはあなた限ったことではない。あなた意外にもわれわれにあったことだ。あなたもとうに知っている。
「ほんとうにそうだ。わたしはちゃんと知っていた。ひろとともに終わろうとしても、わたしは終われない。ひろは逝き、わたしはここへ戻る」
 そのとおりだ。われわれは増えないし減らない。人間といっしょに死を迎えようとしたものも、その人間の死ねば望もしないのにここへ戻ってしまったと。人間が言ところの、永遠を生きるというやつだ。われわれには永遠という概念すらなかったのに。時間は人間が必要としているもので、われわれには不要だった。そうそう、人間といて不思議なことを知ったよ。
「われわれの感性は人間の男のそれだ、ということか」
 われわれに生殖はない。それを知ってもどうということもなかった。なるほどとは思ったが、残念だとか、寂しいなどとは思わなかった。
「降りてきてよかった。わたしはわたしを見失うところだった」
 人間のように、ね。

 カーテンを遮光にしないのは、朝を感じながら目覚めたいから。
 カーテンごしの陽の光を顔に感じて、ひろは目がさめた。また左側を下にして寝ている。「心臓を身体の下敷きにして寝たらいかんよ」と言ったのは誰だったかな。
 左側を下にして横向きに寝ると、心臓に負担がかかりすぎるような気がするくせに、たいてい心臓を下敷きにした状態で目覚めるのだ。自分の辞書に長寿は載っていないのかもしれない、と思う。
 十時四八分。目覚まし時計に起こされなかった朝だった。
 ひろは昨夜を思い出す。
 熱が三七度三分あった。葛根湯を飲んで、「風邪っぽいから明日の朝は起こさないでね」と美緒に言った。「ちょっと疲れ気味なの」
 誰もいない台所で味噌汁を温めなおしてかんたんに朝ごはんをすませる。
 美緒は産婦人科の検診に出かけているし、健太さんは伊勢にある母校K大学のOB勉強会へ行っている。こういう日の社務所には青山さんがつめてくれている。
「よ、おはようというか、こんにちはというか」
「はい、お茶どうぞ」
 マグカップで煎茶をだす。青山の口元がかすかにゆがむ。
 ひろは青山とならんで、ぼぉっとしながら今日のお昼は何を食べようかな、などと考えた。

「えらくナーバスになってたじゃないか。里帰りして元気になったか」
 青山がからかう。
「そういう言いかたをするのはやめろ」
「人間みたいか」
 社殿から鈴の音と柏手が聞こえてくる。お参りがすんだ足音は、鎮守の森の向こうへと遠くなっていく。幼児の声がするところから、隣の公園で遊ぶのだろう。祖母と、歩きはじめて歩くことに夢中の幼児だ。
 青山が朝刊のかたすみの記事を指し示す。
 見出しは「人工衛星、寿命をまっとう」そして「今朝早く、地下資源探査衛星〈イワツチ〉は大気圏に突入し……」と記事がつづいた。
「イワツチという名前があったのか」
 ひろの眼をとじると、わたしは落下していく感覚につつまれた。ゆっくりと沈んでいく。
「われわれの仲間はあのあとチリ沖にひっそり沈んでいったよ」
 青山の声が聞こえる。
「チリ沖……海溝に沈んでいったのか。……仲間か。われわれの仲間。仲間……」
 人間的な感覚、人間的な言葉でわれわれを表現していっても。われわれという認識も人間のものなのだから。もういい……もういい。
「地磁気の転換に惹かれて地球へきた。われわれが降りたって七五万年たったんだ。もっとも七五万年という時間すら人間のものなんだが。われわれはもうわれわれというひとつのものではいられないだろう。チリ海溝へ沈んだ彼ら、そう彼らだ。彼らもやがてひとりひとりと、人間に添うようになる。依り代を求めていく。はるか上空で地球をぐるりと巻いているわれわれも遠からず地球へ降りてくるだろう。小惑星群へはもうもどれない。太陽に近すぎて、太陽の引力に逆らう力はない。わかっていて地球へきたんだ」
 ひろをさとすように、青山が言った。
「揺らぎが終わると、地磁気の転換がはじまるのかな」
「もうはじまっている。揺らぎは前触れであり兆しだ。われわれはみなわかっていた。おまえも、わかっていたはずだ」
 青山がにやりと指さした。
「健太が探し出してきた。神職は健太の転職だ。美緒が健太を探しだしたんじゃないと思わないか? この大石神社が健太を呼びよせたと思えないか?」
 来客用の応接セットのテーブルの上に、いかにも古そうな巻物が無造作におかれている。巻紐はとかれ、見返しと本紙のはじまりがちらりと見えている。
 ひろは手をのばして、ひっこめた。ちょっと触っただけでばらばらになりそうなほど虫喰いだらけで、紙そのものももともとの色がわからないほどひどく痛んでいる。
「縁起? この神社の縁起なんだね」
「さすがだよ、江口健太は」
「鎌倉時代のもの……」
 巻物が書かれたには鎌倉時代はじめで、「百年前のできごと」としてこの神社のはじまりが書かれているという。
 健太が得て、青山も得た知識をひろが得る。同時にわれわれすべてが得た。
 縁起。
「大石神社はほぼ千年前からあったもの」
 ころりとひろは慎重に巻物を広げた。何が書かれているのかひろには読めなかった。落書きのような挿絵が見える。
「われわれの真上にあるこの神社の人間に入ったのはわたしがさいしょだった。人間の信仰というものには近寄りたくなかったのだろう。ひろが胎児だったとき、胎内の感覚が知りたくて、わたしはひろになった」
「運命を思うか?」
 ひろの顔がほころんだ。その考えが気にいったのだ。運命に組みこまれるとは、なんとこころが躍る。
「健太もそう思っている」青山の顔もほころんだ。「千年目。そして磁場の転換がはじまる」
「そうだ。これからわれわれは分散していくだろう。それとともに、より個になり、人間とともに個にヴェールをまとうようになる。ヴェールならいいがやがて厚いかべになるかもしれない。人間と同化していくんだりょうね」
「磁場の逆転は人間に大きな影響はないといわれているのだろう?」
 青山が不安げに言った。
「磁場は現在でも動いているから、逆転しても大きな影響はないだろう。急激な転換でなければ。それに、前の逆転でわれわれは何の影響も受けなかったよ」
「ほんとうに何事もないだろうか。あの時われわれは地球に降りたったばかりで、用心深かった。今のわれわれとは違う。今では人間は地球上にあまねくいる。前の逆転とは状況が違いすぎる。わたしは怖いんだ」
「いいではないか。最悪、われわれは消滅を体験するかもしれないということだ。われわれは永遠ではないということを体験するだけだ」
 ひろは楽しそうに笑った。青山は大笑いした。
「まったくだな。われわれの永遠が終わるかもしれないのなら、一度われわれは集合してみようではないか。」
「来ないものもいる」
 すっかり人間と同化したものもいるのだ。
「おなじときに人間も来られるように祭りをしようと健太が計画した。地下にいるわれわれがともにいられる人間と出あえるかもしれない」
 青山はテーブルを指す。
「その縁起を公開して、祭りをするんだ。千年目の祭り、千年に一度の祭りだ」
「小さい神社だ。大勢来られても困るだろ」
 参拝にきた顔なじみの老夫婦が、小窓からのぞいてひろと青山に会釈する。
「いいお天気で」
「よくお参りくださいました」
 夫婦は五十円を置き、小さいお供えの御神酒を持っていく。やがて社殿の鈴が鳴らされた。
「この神社周辺の人間たちが集まるだけでも上々だ」
 ひろは社務所をでて、夫婦にてをふりお辞儀をした。
「健太はいつごろを予定しているのだ?」
 もう健太の計画の詳しいところは、われわれに共有されていないのだ。
「準備もある。この秋に前触れの祭りを小さくやって、来年の今ごろに大きい祭りをやろう、そんな感じだろう。健太がすべてやってくれるさ」
「秋には揺らぎはなくなっている。そして来年、もう転換ははじまっているな」
「そうだ。われわれの終わりがはじまるんだ」 
 ひろと青山は鳥居のしたで、帰っていく老夫婦を見送った。
 ひろの上に桜のはなびらがふりそそぐ。  (了)


「千年大祭」 梗概  南草和奏
 わたしは高木ひろのなかに棲まう。
 ひろは娘夫婦の江口健太と美緒とともに大石神社に住んでいる。神主は健太である。美緒は妊娠している。大石神社の氏子総代は青山史郎。そのなかにわれわれは棲んでいる。
 われわれはいつしか人間と生きるようになった。地上にでて多くの人間のなかに棲む。われわれはまだ名古屋の地下深くに残っていて、そこは空洞になっている。
 われわれが活動するとき、人間は眠る。
 揺らぎが起こると、その直後、人工衛星が大石神社の真上を通過していく。わたしはそれが気になっている。
 健太は人工衛星について調べた。廃棄されているはずの地下資源探査衛星だった。
 健太は大石神社の歴史に興味を持つ。
 大石神社の男たちは短命で、ひろにとっての心配の種だ。
 われわれは小惑星群を離れ、地球に向かう。七五万年前に地球へ降りたったわれわれの思考を共有して、すでに人間的になっている。
 ひろたちは揺らぎと人工衛星通過を待つ。余命の少ない青山と健太、ひろの死後に別の人間にうつるのかどうかを話す。
 われわれが地球の上空に着いた。
 揺らぎの時間が近づき、上空のわれわれの一部が人工衛星を大気圏へ落とした。その後そのわれわれは棲まうためにチリ海溝に沈んだ。
 ひろはわれわれの破壊行動にショックをうけ、ひろを離れて地下のわれわれのもとへもどる。そこでひろはわれわれすべては人間でいう男の感性を持ち、生殖はなく、増えないし減らない。永遠の存在なのだが、永遠という概念もまた人間のものだと確認する。
 揺らぎは地球の地磁気反転の兆しだが、人間にはあまり影響はないが、われわれは永遠ではなくなるかもしれないとも。
 健太は大石神社の縁起の巻物を見つけだした。大石神社はおよそ千年めを迎える。
 それを運命ととらえ、ひろたちは永遠ではなくなるわれわれのために大石神社で祭をしようと計画する。     (了)

2014年第5回創元SF短編賞 最終候補 筆名南草和奏で応募
 
 

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