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目覚まし時刻三秒前

 音もなく現れた戦車が、コロッセオの観客席を破壊しながらアリーナへ降りてくる。
 戦車は観客席と同じ傾斜で下を向き、主砲をアリーナとの水平にもたげた。
 砲口の丸い闇がわたしをとらえて、グラデーションの渦をつくりながら広がっていく。
 崩壊しているアリーナの床は崩れ続け、地下の檻は朽ちて、飢えた雌ライオンがうろついている。
 一頭のライオンがわたしを見て、鼻筋に皺を深く寄せて唸った。それを合図に雌ライオンたちがいっせいにわたしに向かってくる。
 これは夢だ。だってこんなに寒いから、怖い夢をみるんだ。もうすぐ目覚ましが鳴るはず。眼が覚めるはず。
 寒い。サンドベージュのカーペットがぼんやり見える。はっきり眼が覚めた。枕元の目覚ましを止めた。
 寒いはずだ。掛け布団を抱き枕のように抱えていて、背中から足にかけて布団がかかっていない。カーテンの隙間から射した朝陽が肩のあたりをを照らしていた。

 あはは。
 こがちゃんが左手にアイスココアのグラスを持ったまま笑った。グラスの水滴がテーブルとスカートにぽたりぽたりと落ちる。
「あ、やだ」
 グラスを持ったまま、紙ナプキンで水滴を拭こうとして、ココアまでテーブルにこぼれた。
「あーあ」わたしは紙ナプキンを三枚重ねてテーブルを拭いた。
「寒いと怖い夢みるよね」ハンカチでスカートをふきながらこがちゃんが言った。
「だね」
「おおのちゃんさ、まだ追いかけられるとか、必死で逃げてるのに足が動かないとか、そういう夢を見ちゃっうんだよね。これは夢なんだとか思いながら、さ。すっごいストレスたまってんだ」
「ま、ね。怖くても、夢の中で夢だとわかってるから、なんというか……」
「でもさ、そう思ってても、結局何かわからない怖いヤツから逃げきれなくて、追いつかれちゃって、とうとう目が覚めないってこと、あるかもしれないじゃん」
「つまり睡眠中に心筋梗塞で死にました、って終わりかただね。」
 こがちゃんは一瞬言葉につまったが、すぐに口角がにやりと上がる。
「怖い怖い。そんな時は、猫ですよ。猫!」
 来た! わたしは用心しながらアッサムティーをひと口すすった。遠慮なくイヤーな顔をしておく。
 こがちゃんはそんなささやかな抵抗など眼中にない。。
「さくらちゃんが子猫を五匹産んだんだよ。産まれて一ヶ月、かわいいんだから」
 と両手でハートマークを作りウインクなどしてくる。
 イイ歳してやめてよ、でも言葉を呑んだ。
「まださくらに避妊手術受けさせてないの! いい加減にしときなさいよ」
「だって、さくらちゃんてば脱走するんだもん。外に出ちゃだめって、いつも言ってるのにさ。でさ、子猫のかわいさってたまんない。癖になっちゃう。ねぇねぇ、雄がいい? 雌がいい? 猫と布団に入れば怖い夢なんてみないし、モフモフすれば至福だよ」
「いらない。いりません。猫は飼いません。猫と暮らすつもりはない!」
「いいじゃん。おおのちゃんのアパート、ペットオーケーなんだからさ」
 だめだめ! ぜったいに、だめ!

 材木を組んだだけの階段を降りると、祖父の半地下の部屋がある。明かりとりの窓から射す陽光は、やわらかく部屋を照らしているが、鳥小屋として使っているので、なにしろ臭い。祖父はカナリヤのブリーダーをしていたので、鳥小屋の換気には気を使っていた。だがその当時は空気清浄機を持っていなかったので、どうしても臭くなる。祖父の足し無い年金では、趣味のブリードに空気清浄機も買えなかったのだろう。
 何段にもなっている棚にたくさんの鳥籠がならんでいる。階段と同じように、祖父があり合わせの材木で手作りした棚は古びて、朽ち始めている。鳥籠も錆びている。
 鳥籠はどれも扉が開いていて、カナリアたちが出たり入ったり、飛び回ったりしている。
 そうそう、こんなふうに囀っていたね。いい声してるね。
 わたしの肩に白い鳥がとまった。
「テンちゃん……」
 文鳥のテンちゃん。頭のてっぺんにひとつ黒い羽がある。わたしの手の中で卵を産んだチィちゃん。
 アル、ベイ、おいで。オカメインコも肩にとまる。
 赤い眼のルル、シロ、アオ、ソラ、キキ、セキセイインコたちと、コザクラインコのタロとハナは腕にとまった。
 わかってる、これは夢だ。わたしはいま、夢をみてる。もう朝だ。もうすぐ眼が覚めてしまう。
 しあわせな夢だなぁ。このままずっとここにいたい。みんな元気そうでよかった。
 みんな飛びはじめて、明かりとりの窓から出ていく。
 日暮れには帰っておいでね。餌と水と菜っ葉を取り替えておくからね。わたしは起きずにまってるよ。ここで朝のまま待ってるから。
 棚が崩れて、籠が消えていく。
 崩れた棚が音もなくわたしを目がけて倒れてきた。
 ずしんとお腹に落ちてきた。
 うっ、と呻きながらうっすら眼を開けると、遮光カーテンが中途半端に開いている。
 目覚まし時計が鳴ってしまった。
 ベルを止めようと伸ばした手を、ざらりと舐めて、ニャーと鳴いた。
 昨夜、こがちゃんが特攻してしてきて、置いていった八歳の雌のロシアンブルー。

 近所のおばあちゃんが亡くなって、行き場のないこなの。餌と猫グッズをまとめて持ってきたから、オ・ネ・ガ・イ・ね。

 キキの名残におぼれていないで、さっさとおじいちゃんの代から懇意の鳥屋さんへ行けばよかった。
 鳥たちが行ってしまった。

 ざらざらの舌で顔を舐めるのはやめて。たたでさえ荒れ気味の肌が調子悪くなっちゃう。
「エカテリーナ」
 エカテリーナは何度もわたしの顔にすり寄ってくる。
 
ニャー
 


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