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小説

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#ショートストーリー

美味しい桃

一ヶ月ぶりだね。玄関先で失礼するから、気を遣わないで。元気そうでよかった…… はい。愛想のないレジ袋でごめん。 その桃、五月に亡くなった伯母さんの香典返しなんだ。化粧箱入りで送られてきたの。大きくて形もよそゆき、いい匂いでしょ。一個五〇〇円とか六〇〇円とかしそう。自分ではとても買えないわ。 さすがにすごく美味しいんだよ。 亡くなった伯母さんのこと、わたしすっごく嫌いだったから、亡くなったら「嫌い」という負の感情から解放されるかと思ったけど、案外そうでもなくて、伯母さんの嫌い

鉄板メシ

 十八日と二八日は大須観音で骨董市がある。  その日が土日祝祭日なら、ぜひとも行きたいのだが、二の足を踏む。骨董に興味があるとも思えない父がかなりの確率でうろうろしているからだ。  骨董、古物、古着など多種多様な古物市なので、友だちと品定めをしながら店々を冷やかし、買いたい気持ちに心を開いて、つい買ってしまうのを楽しみたいのに。  うっかり父と鉢合わせしてしまったにしても、遠くにいるのにバッチリ眼があってしまったにしても、「やあ」とか「なんだ、おまえも来とったんか」ていどの会

おばあちゃんs

 夕方五時半から六時を回ったころには、十五分歩いて保育園へ孫をお迎えに行く。  孫を受け取り、保育園から一〇分ほど歩いて孫の家、つまり息子の家へ寄り、孫とママかパパの帰りを待つ。  二〇年も若ければ、自転車にチャイルドシートを着けて孫を乗っけているだろう。けれど前期高齢者となると、想像力は悲観的になり、自分の身体的バランス感覚を疑い、考えうるあらゆる危険性ばかりが脳裏で膨らんでしまう。なので体力と筋力の維持と位置づけ、徒歩でお迎えをしてきた。とことん悲観論者のわたしは、孫を

雛さまの船に乗る

 昼時の八階ラウンジは食堂になる。  十二時、さりげなく、ひたすらさりげなく斥候が静かに席をたつ。わたしも焦る心を悟られないようにエレベーター前を通過し、非常階段で三階から八階へ。これは自分に課した運動ノルマだ。  いつものメンバー&なぜか係長の五人で窓際の席を確保した。とはいうものの、隣のビルの窓はブラインドが降りているし、亀のように首を伸ばさないと空は見えないしで眺めは悪い。けれど今日はいい天気だなとか、曇ってるんだとか、雨が降ってるねとか、外の様子を感じるだけでもほっと

壁ぎわのないしょ話

 晩ごはんは名古屋に帰ってからにしよう。食べたいのはお寿司。  東京駅十七時二〇分発のぞみに乗った。六号車、C席。チケットを買うときに空席を確認したB席は、品川も空席のまま出発した。  ニンマリしながら社へメールをする。最後に「直帰します」。  水曜の夜七時すぎ、名古屋駅中央コンコースを東へ歩く。さすがに混雑しているが、構内地図はシンプルなので、人の流れにのれば歩きやすい。  駅を出て、ミッドランド方向へ横断歩道を渡り、笹島方向へ向かう。狭い夜空にぽつんと見える星は金星かな

鴨居の上

 一月、最初の日曜日、夕暮れ。  従兄弟の輝明が年賀と称して一升瓶をぶら下げてやってきた。輝明がひとりでわたしの住まいに来るなんて、初めてのことだ。  ドアを開け、輝明を見た。迷ったが笑顔はやめて不機嫌な顔で出迎えた。 「めずらしい、しかも連絡なしに来るとは。不在だったらどうするつもりだった?」 「これも運命として帰ったよ」 「わたしの留守が、輝くんの何かの啓示になっちゃうんだ」 「かも……」  わたしは苦笑いで差しだされた一升瓶を受けとり、同居人の千佐都へ渡した。 「これ

みそかに降る雪

 昨日の朝は雪が積もっていた。  今日は雲ひとつない。微風。気温二度、「夜明け前はマイナス一度でした」とお天気ニュースが言った。  十時にお願いした引っ越しの軽トラックが、もうすぐ来る。一台で運べるように、荷物は減らしに減らした。  両親は「志摩で就職して実家暮らしになるのだから、何も持って帰るな!」とニヤつきながら言った。  ほんとうに晴れてよかった。 「片岡綾」の表札を外してショルダーバッグに仕舞った。ショルダーバッグと一泊用グッズをあれこれ入れたリュックは、引っ越し荷

雨に惑う 餓鬼岳(後)

 山小屋の朝は早い。餓鬼岳小屋も同じく、早い。  杏子は掛け布団を座布団代わりに胡座をかきスマホを見ている。お天気アプリで雨雲の様子を確かめていた。 「おはよう」 「おはよ、那々」  わたしはむくりと起きて、腕時計見る。午前四時。さてと、まずは布団を畳もう。  同宿の登山客たちは、「雨が降ってるよ」「でも小雨だ」「この程度の雨でも、足元には気をつけなくちゃ」「濡れた岩場はすべるよ」と誰彼となく伝えあっている。  わたしが一番寝坊助だった。  実樹はとっくに洗顔をすませていた

足が震えた夏 餓鬼岳(前)

 果てしない星空、畏るべき天の川を横ぎってゆく薄い雲。その夜空を闇で切りとる槍ヶ岳。槍ヶ岳を浮かべる雲海。 「雨の中を登ったご褒美だね。美しい」と杏子が言う。 「……だね。雨が小雨でよかったよ」と実樹はくふふと笑った。  わたしは星空と槍ヶ岳と雲海に見惚れて、話しかけないで、と思っていた。 「九時に消灯だから、部屋に戻るよ」と杏子に肩を揉まれ、「真っ暗にならない前に寝よう。ヘッドライトをつけて歯磨きしたり、トイレに行ったりしたくないでしょ」と実樹に肩を叩かれた。軽くだけどね

青い鳥がやってきた

 朝、遠慮がちな歓声で目が覚めた。  八時七分、日曜日に起きる時間じゃない。午前中は爆睡するつもりで、昨夜というか今朝というか、寝たのが三時すぎなのに。  頭はくらくらするが、目覚めの気分がハイになりすぎていて、二度寝はもうむずかしい。  パジャマだし、髪はボサボサだし……  目でのぞけるていどに、カーテンに細いすき間をつくって外を見る。けれど古アパートの三階から見えるのは、山脈のように重なる屋根、屋根、屋根。もちろんところどころにそびえる高層、控えめな中層のマンションや

おたよりついた

 今日の晩めし、かっちゃんと食べるから、よろしく。  あ、たぶん飲みもね。  ダンナのありがたい通告に、わたしは「はーい」と返事をする。さっそくみきこさんへメールする。  晩ごはん、どこかへ食べに行かない?  トイレへ行き、コーヒーを飲み、掃除機をかけて、もう一杯コーヒーを飲んだ。  卓球のレシーブのごとくのみきこさんの返信が……こない。スマホはマナーモードにはなっていないし、メールの受信音量もマックス手前の大きさだ。  みきこさん、なにがあった? というか、こういう日も

砂漠を走れ

 デパートの紙袋から、なおみさんはまず白ワインのハーフボトルを出した。それから、あれやこれやとお惣菜が並ぶ。 「手間をかけずに、このまま食べよう」  お惣菜のパックの蓋を開けていく。  レタスと水菜のビーンズサラダ、スモークサーモンを乗っけたポテトサラダ、里芋とイカの煮物、大根の煮物、ローストビーフは二枚、イワシの南蛮漬けのイワシも二尾、漬物。塩むすびがふたつ。割り箸。合宿みたいだ。 「なんだか緑が足りないわね」  なおみさんはもうひとつ包み紙を開いて、ふっくら厚みのあるグラ

目覚まし時刻三秒前

 音もなく現れた戦車が、コロッセオの観客席を破壊しながらアリーナへ降りてくる。  戦車は観客席と同じ傾斜で下を向き、主砲をアリーナとの水平にもたげた。  砲口の丸い闇がわたしをとらえて、グラデーションの渦をつくりながら広がっていく。  崩壊しているアリーナの床は崩れ続け、地下の檻は朽ちて、飢えた雌ライオンがうろついている。  一頭のライオンがわたしを見て、鼻筋に皺を深く寄せて唸った。それを合図に雌ライオンたちがいっせいにわたしに向かってくる。  これは夢だ。だってこんなに寒い

桜の枯葉が風にのる

秋が終わっていく。 落葉樹の葉っぱは風がなくてもはらりと落ちる。やさしい風が吹けばはらはら散る。遠慮のない風なら、さあ果てるぞとばかりに葉っぱは遠慮なく風にのる。  畳一畳ほどのベランダは落ち葉が重なりあって、二〇リットルの燃えるゴミ用ゴミ袋はたちまちいっぱいになった。 小寒い昼さがり、半袖のTシャツで汗をかきながら、六つ目のゴミ袋の口を縛った。毎年秋に一度、ベランダの落ち葉掃除は暗黙の約束。 「お世話をかけて申しわけありません」  きくえさんはベッドに腰かけたまま、他