見出し画像

領収証書授与ゲーム

「大西先輩。ご卒業おめでとうございます」
 鶴見さつきは祝福の言葉と共に、几帳面な筆致の文字が綴られた紙を大西怜衣へ差し出した。怜衣は「ありがとう」と頷き、さつきの手から紙を受け取った。
 紙に書かれた文章に目を通し、怜衣は切なげに淡く笑みを浮かべた。さらさらと柔らかい風が吹き、薄く小さな花びらが一枚、怜衣の長く真っ直ぐな髪に触れた。
 さつきは怜衣の髪についた花びらを指先でそっと払い、「払ってください」と言った。怜衣は「何のこと?」と返し、ぴうぴうと調子外れの下手な口笛を吹いた。
「とぼけたって駄目ですよ」
 さつきは冷ややかな調子で言って、怜衣が持つ小さな縦長の紙を指さした。紙には「カフェ・トッフ」「合計 ¥2200」などの文字が規則正しく印字されている。
 一週間ほど前、さつきは怜衣と共にカフェ・トッフという名前の店を訪れた。色彩豊かな調度が並ぶフロアには、それなりの人数の客が詰めかけ、ざわざわと楽しげに言葉を交わし合っていた。
 広々とした店内の端にある席に案内されたさつき達は、店が提供しているラインナップの豊富さに目を見張った。ケーキ、チョコレート、チーズ、絨毯、大怪獣……古今東西多種多彩の品目がそこにはあった。
 ボードやカード、コマやサイコロといった形状をとるその品々は、舌ではなく感情に美味をもたらす。ボードゲームと呼ばれるそれらを、相席の客達も交え、さつきと怜衣は時間いっぱいに遊び尽くした。
 小さな縦長の紙は、そのボードゲームカフェでの会計時に受け取ったレシートだった。記載されているのは二人分の金額だが、さつきはその全額を支払っていた。手持ちが少ないから一旦立て替えておいてほしい、と怜衣に頼まれたためだった。
「あの時、来週払うって言いましたよね。先週の来週は今週ですよ」
「君ってやつは風情がないな。周りを見てみなよ」
 右腕を広げるように伸ばして怜衣は言った。さつきは怜衣の手が示す先に視線を向けた。
 白く塗られた校舎に囲まれた空間に、石造りの道が枝分かれしながら通っている。道の周りでは刈り揃えられた芝生が、三月の陽光を浴びてつやつやと輝いていた。
 中庭にはさつきと怜衣を含め二十人ほどの学生がいるようだった。大人数で集まってわいわいと話している者もいれば、さつき達と同様に、片隅のベンチに二人で座っている者もいる。
 学生達の多くは、胸元に卒業を祝う花飾りを着けている。十数分前まで行われていた、卒業証書授与式の名残だった。怜衣も同じ花飾りを身に着けているはずだったが、むしり取ってバッグに放り込む場面を、先ほどさつきは目撃していた。
 中庭にいる学生の多くは明るく笑い声を上げていたが、過ぎ去っていくものを惜しむような、どこか寂しげな調子が微かに混じっていた。
 目からはらはらと雫をこぼし、ハンカチで拭っている学生もいる。さつきのいる位置から道を挟んだ向かい側にあるベンチでは、雨のように涙を流す在校生の背中を、瞳を潤ませた卒業生が慰めるようにさすっていた。
「この感傷に満ちた空間の中ですべきことは、金を払うとか払わないとかいう話じゃない」
 怜衣が人差し指をくるくると回しながら言った。
「ドラマチックな別れのシーンだ」
「まあ、分からなくはないですけど」
 さつきは小さく頷いて言った。
 実際のところ、卒業にあたって怜衣が感傷的な素振りを見せることを、さつきは少しだけ期待していた。普段は陽気な怜衣が涙の一つも浮かべる様子を見てみたいという、好奇心にひと匙の悪戯心を垂らした思考によるものだった。
「珍しく鶴見の泣き顔が見られると思ったんだけどな」
 怜衣が唇を尖らせて言うのを聞いて、さつきは苦笑した。お互い思考の向かう先が似通っている。二年近く顔を合わせ続けた結果、ろくでもないところばかり似てしまったのかもしれなかった。
 さつきと怜衣は同じ「ボードゲーム研究会」という部活動に所属していた。今日をもって卒業する三年生を含め、ここ一年ほどは十数人の部員がいたが、他の部活動にも参加している者や、アルバイトに勤しむ者も多く、日によってまちまちの人数で活動する場合がほとんどだった。
 その中において、ほぼ毎回のように部室に顔を出す、熱心とも暇人とも評せる部員が二人いた。一人はさつきの目の前にいる。もう一人はさつきの目の前にいる人物の目の前にいた。
「もう一緒に部活はできないんだ。君は寂しくないのか?」
 さつきの腕を人差し指で突いて怜衣が言った。
「寂しいですよ。高野先輩や斎藤先輩がいなくなるなんて」
「あいつらは元々レアアイテムみたいな出現率だっただろ」
「希少な方がありがたみがあるってことです」
「何だとう」
 怜衣は「一秒十六連打!」と言い放ち、さつきの脇腹を指先で何度も突き始めた。宣言ほどの連打速度は到底なく、さつきは怜衣の手首をあっさりと捕まえた。
「馬鹿なことやってないで、早く立て替え分を払ってください」
「全くもう、情緒も青春もありゃしないな」
 ぶつぶつと不満げに呟きながら、怜衣はバッグのファスナーをジイッと音を立てて開けた。空色の財布を取り出してパチンと留め金を外した直後、怜衣はぴたりと動きを止めた。徐々に口角が上がっていき、悪戯を思いついた子供のような表情になっていく。
「ねえ、鶴見。ちょっとこれを見てくれよ」
 ニタリと愉快げに唇を歪めて怜衣が言った。さつきが眉をひそめていると、怜衣は財布から二枚の紙を引っぱり出し、さつきの手へ押し込むように渡した。
 さつきは二枚の紙に記された文字を読んだ。それらはいずれも同じファミリーレストランのレシートだったが、発行日時や金額といった詳細は異なっていた。
「その二枚は、以前私が君にデザートを奢った時のやつだ」
「そうみたいですね」
 さつきはレシートを眺めながら言った。どちらも一ヶ月以上前の日付だが、確かにレストランでの飲食代を怜衣に払ってもらった際のものだった。
 その時に限らず、さつきは怜衣に奢ってもらったことが何度かある。一応の感謝はしているが、恩に着るというほどではない。さつきが怜衣に奢った回数の方が多いからだ。
 さつきと怜衣が互いに奢り合うのは、親切や好意によるものではない。情を交えぬ真剣勝負の帰結だった。
 ボードゲーム研究会の活動中、他の部員が来ず二人きりになる機会が度々あった。そういう時、たいてい怜衣はさつきに一対一のゲーム勝負を持ちかけた。
 勝負の題材は、部室に備品として置いてあるボードゲーム、さつきか怜衣が持ってきたボードゲーム、怜衣が部活動の趣旨を無視して持ってきたテレビゲームなど様々だった。
 さつきは細かい戦績までは覚えていないが、自分が負け越していることは分かっていた。
 いつからか二人の勝負には、敗者が勝者に何かを奢るというルールが加わっていた。たいていは安い菓子や缶ジュースだったが、時にはファミリーレストランや喫茶店での奢りを賞品とすることもあった。
 これまでの勝負を通じて、どちらかというとさつきの方が奢った回数が多かった。それはつまり、さつきにとっては癪なことだが、負けた回数も多いということだった。
「こっちのレシートでは、君の注文は『パンケーキ』と『ドリンクバー』だ」
 一方のレシートを右手の人差し指で示して怜衣が言った。
「そしてこっちのレシートでは、君の注文は『ジャイアントパンケーキ』。二回分の奢り額を合わせると1270円になる」
 怜衣はもう一方のレシートを指した後、カフェ・トッフのレシートを左手で掲げた。
「私の君に対する借りは、ここに書かれた2200円の半分。1100円だ。この額は君の私に対する借り、1270円よりも少ない。この数値的事実からすれば、私は君に金を払うどころか、差額の170円を受け取っていいはずじゃないか?」
 怜衣は滔々と言って、挑むような目つきでさつきに微笑みかけた。
 無茶な理屈ではあった。既に清算されたはずの過去の奢りによって、現在の立て替えを打ち消そうとしている。仮にそんな話が通るとしても、これまでの奢り回数を鑑みれば、むしろさつきの方が貸しの多い立場のはずだった。
 主張の欠陥を指摘するのは容易だったが、さつきはそうしなかった。二年弱の交流の成果か、怜衣の発言に含まれた意図を、さつきは正確に理解することができた。
 これはゲームだ、とさつきは思う。
 ルールは単純だ。相手の自分に対する「借り」、つまり相手のために自分が出費した金額について、裏付けとなるレシートを渡すことで指摘する。互いに指摘のあった金額を足し合わせていき、最終的にその合計が少ない方、すなわち借りが少ない方が勝者となる。
 幾度となく繰り返されてきたゲーム対決の、新たな幕が上がっていた。粗雑で洗練されていないゲームではあるが、二人の間に合意があれば、どんなことも勝負の種になり得るのだった。
 さつきは怜衣の瞳をじっと見返し頷いた。怜衣は愉快げに口角を上げ、「さあ、どうする?」と挑発するような口調で言った。
 レストランのレシート二枚をベンチにそっと置いて、さつきは自分のバッグから薄茶色の財布を取り出した。札入れや小銭入れ、カード入れといった各所を確認したが、ゲームの手札になりそうなレシートは見当たらない。二日前にショッピングモールで買い物をした際のレシートがいくつか入っていたが、借りの指摘に使えるものは今のところないようだった。
 さつきはバッグのファスナーを大きく開けて、隅から隅まで視線をゆっくりと動かし中を探った。ペンケースやペットボトル、ビニール袋などが陣取るバッグの底の端に、くしゃくしゃにくたびれた二枚の紙が張りつくように落ちているのが見えた。
 取り出して広げてみると、両方ともレシートのようだったが、片方は文字が薄れてほとんど読めなくなっていた。もう片方に目を向け、さつきは頬を綻ばせた。それはカラオケ店のレシートだった。
 大学受験の結果が発表された頃、怜衣は自分の合格祝いと称して、部室でペグソリティアと格闘していたさつきをカラオケへと連れ出した。
 カラオケ店では、採点機能による歌唱勝負、持ち込んだボードゲームでの勝負、歌いながらのボードゲーム勝負など、いくつもの対決が立て続けに行われた。名勝負とも珍勝負ともつかない戦いの結果、総合戦績においてさつきは惜敗を喫した。
 敗北の対価として、さつきは二人分の料金を受け持つことになった。さつきにとっては少々癪な結果ではあったが、その過去の敗北が、現在の勝利に繋がる鍵となるかもしれなかった。
「私にも言い分があります」
 さつきは文字が薄れたレシートを財布にしまい、カラオケのレシートを怜衣の手に渡した。
「二人分のカラオケ料金、1500円を私が払った時のレシートです。半分の750円は私に対する先輩の借り。私の借りが1270円なら、先輩の借りは計1850円です。どちらがお金を支払うべき立場か、数字を比べてみれば明白ですよね」
「なるほどね……そう簡単にはいかないか」
 怜衣は腕を組んで考え込むように言った。眉間にしわを作って難しげな表情を見せているが、どことなく態度に余裕と自信の気配がある。まだ何か有力な手札を持っているな、とさつきは直感した。
 さつきが様子を窺っていると、怜衣は自分のバッグに手を入れ、がさがさと音を立てて紙袋を取り出した。クリーム色をした袋の表面には、学校の近くにあるボードゲームショップのロゴが印刷されていた。
「はい、どうぞ」
 怜衣は当たり前のような口調で言って、さつきに紙袋を差し出した。反射的に袋を受け取った瞬間、さつきの頭の中で警告のブザー音がビビビと鳴り響いた。
「受け取ったね? それはもう君のものだ」
 仕掛けた罠が作動する様子を確認したような、満足げな笑みを浮かべて怜衣が言った。
「……何ですか、これ?」
 さつきは眉根を寄せた。袋の中を覗くと、ボードゲームのパッケージらしき箱が見えた。箱に描かれたイラストの中で、クロワッサンのような外見のキャラクターが、にこにこと楽しげな表情でフランスパンを振り回していた。
「君へのプレゼントだよ。今日で卒業することだし、たまには感謝の気持ちを伝えようと思ってね」
 怜衣の言葉をさつきは黙って聞いていた。怜衣は満足げに唇を歪めながら、さつきの手の平に一枚のレシートを置いた。内容の想像はついていたが、さつきは確認のためレシートに視線を向けた。
 4200円。クリーム色の紙袋に入ったボードゲームは、これまでの攻防をまとめて吹き飛ばすだけの価値を秘めていた。
 あくどい奇襲を考えたものだ、とさつきは思う。先ほどまで存在しなかった借りが、プレゼントという形で今まさに生じてしまった。
「1850円対5470円。形勢逆転だ」
「よくもまあ、こんな小狡い手を思いつきますね」
 さつきが賞賛一割呆れ九割の口調で言うと、怜衣は「まあね」と得意げに瞳を輝かせた。
「もちろん、差額を払ってくれなんて無茶は言わないよ。ただ、今は財布の中身が心もとなくてね。トッフの支払いをなしにしてもらえると、すごく助かるんだけどな」
 既に勝者になったような口ぶりで怜衣は言った。実際のところ、現在さつきの手元に状況を覆せるレシートはなかった。さつきはボードゲームショップのレシートを弱々しく握りしめて俯いた。敗者を労わるようにして、怜衣の手がさつきの肩にそっと触れた。
 さつきは下を向いたままひっそりと頬を緩めた。怜衣は奇襲に成功した。それは事実だったが、別の観点から状況を捉えると、重大な失敗を含んでもいた。
「してやられました。今の私には出せるレシートがありません」
 さつきはゆっくりと顔を上げて言った。
「じゃあ、私の勝ちってことでいいんだね?」
 怜衣は声を弾ませて言った。さつきは返事をしないまま、ゲームの入った紙袋とレシートをベンチに置いて、自分のバッグに手を伸ばした。
「ところで、先輩。隣町のショッピングモールに最近ボードゲームのお店ができたんですけど、知ってますか?」
「ええと……そうらしいね。まだ行ったことはないけど」
 怜衣の戸惑ったような言葉を聞きながら、さつきはバッグからビニール袋を取り出した。半透明の袋の向こうには、角ばった箱の形が薄っすらと浮かんでいた。
「私、この間そこに行ってきたんです。卒業のお祝いに、先輩へのプレゼントを買おうと思って」
 さつきは箱の入ったビニール袋を膝の上に置いた。怜衣は目を大きく見開いて袋をじっと見つめた。ぱっくりと開いた袋の口から、あちこちに伸ばした八本の腕で八本のフランスパンを振り回すキャラクターのイラストが描かれた、ボードゲームのパッケージが姿を見せていた。
「これがそのプレゼントです。受け取ってもらえますか?」
 さつきは穏やかな声色で言って、袋を怜衣に差し出した。怜衣は呻くように「そうきたか」と呟いた。
 ショッピングモールに行った際のレシートはさつきの財布に入っており、その中にはボードゲームショップで受け取ったものも含まれている。現時点では価値はないが、怜衣がプレゼントを受け取った途端、先ほどの奇襲と同じように有効な手札へと変わる。ボードゲームの価格は3800円。形勢を再びひっくり返すには十分な額だった。
 怜衣は半透明のビニール袋を睨むように見ていた。指をくにゃくにゃと忙しなく動かしながら、腕を袋に近づけては遠ざけている。透明のピアノを弾き鳴らしているような動作だった。
 受け取らないという選択肢も、怜衣にはないわけではなかった。ゲームの勝利と立て替え分の支払い回避。ボードゲームと後輩の厚意。いずれを得ていずれを失うかは、怜衣の心中の計算機が出力する結果次第だった。
 さつきが怜衣の挙動を注視していると、怜衣は透明ピアノ演奏を止め、のろのろとした手つきでビニール袋の持ち手を掴んだ。悔しげにこわばった微笑を浮かべながら、自分の膝の上に袋を持っていき、箱の上部をぽんぽんと叩いた。
 さつきは財布からレシートを一枚取り出し、怜衣に向かって差し出した。怜衣はレシートを受け取り、少しの間何も言わずそれを眺めていた。
「5650円対5470円」
 場内アナウンスのような抑揚で怜衣は言った。
「もう打てる手がないよ。参った、私の負けだ」
 怜衣の言葉を聞いて、さつきはふうっと大きく息を吐いた。快い充足感が体中にじんわりと広がっていく。単純なゲームではあったが、それでも勝利が心身にもたらす感覚は美味だった。
「プレゼント作戦は妙手だと思ったんだけどな。逆手に取られるとは不覚だった」
「それ、受け取らなかったら先輩の勝ちでしたよ」
 怜衣の膝に置かれた箱入りの袋を指して、さつきは言った。
「目先の勝利のために、折角用意してくれた贈り物を断るほど無情じゃないよ」
「そうなんですか? 先輩ならやりかねないと思ってました」
「何だとう」
 怜衣が人差し指を立てるのを見て、さつきは脇腹を手で庇いながら「連打はやめてください」と釘を刺した。
「でもまあ、負けたのは悔しいけど、プレゼントは嬉しいよ。ありがとう、鶴見」
 怜衣は二ッと歯を見せて、ランタンが灯ったように笑った。さつきは頬を掻きながら、「こちらこそ、ありがとうございます」と返した。
 さつきはクリーム色の紙袋を持ち上げ、中からゲームの箱を取り出した。様々なパンを模した形状のキャラクター達が、パッケージのそこかしこで楽しげに笑いながらフランスパンを振り回しているのが見えた。
「へんてこなパッケージですね。ゲームの内容が全然想像できない」
「だろ? だから選んだんだ」
 怜衣は愉快げな調子で言って、半透明のビニール袋から箱を取り出した。様々な本数の腕を生やしたキャラクター達が、パッケージのそこかしこで大量のフランスパンを振り回している。
「へんてこなパッケージだな」
「だから選んだんです」
 さつきは言って、ふっと小さく息を吐き出した。怜衣も似たような吐息を出して、ふふ、と可笑しげに声を上げた。
 背中を丸めくすくすと笑い合っていると、不意にざあと強い風が吹いた。何枚かの薄い花びらがさつきと怜衣のそばを通り過ぎていく。さつきはベンチに置かれたレシートを押さえたが、一枚が手をすり抜けて風に乗り、怜衣の長く真っ直ぐな髪に触れた。
 風はすぐに止み、レシートは髪の上を滑るように落ちていった。ベンチまで落ちてきたレシートを手に取り、さつきは仄かに笑みを浮かべた。最上部にカフェ・トッフのロゴが印刷されていた。
「ところで、勝負は私が勝ったわけですから、立て替えは無効になりません」
 さつきは手の中にあるレシートを怜衣の眼前に突きつけた。怜衣は体を後ろに反らせて「ぐげ」とウシガエルに似た呻き声を上げた。
「さあ、払ってください」
「勘弁してくれ、金欠なんだ。今払ったら財布の表と裏がくっついてしまう」
「だったら私へのプレゼント、買わなきゃよかったじゃないですか」
「卒業の時くらい、いいところ見せようと思ってね」
 怜衣は顎に手を当て、気障っぽい流し目をさつきに向けた。片方のまぶたを下ろそうと試みているようだったが、ウインクというよりただ眠たそうな目つきになっていた。
 さつきは責めるような険しい表情を保とうとしたが、腹の奥から可笑しさがこみ上げ、顔面や横隔膜がぷるぷると震えた。怜衣は瞳をぎらりと輝かせ、さつきの脇腹に向かって槍のような人差し指の一撃を放った。
 突かれた場所にボタンがあったかのように、さつきの相好は瞬間的に崩れ去り、口から笑いの吐息があふれ出た。怜衣は頭の後ろに手をやり、悪戯を誤魔化すようにぴうぴうと下手な口笛を吹いていた。
「もう、しょうがないなぁ」
 口元と腹に手を当て、湧き出す笑い声を抑えながらさつきは言った。
「じゃあ、今は払わなくていいです。その代わり……」
「その代わり?」
 怜衣は警戒するように体を引いた。その様子を見て、収まりかけたさつきの吐息がもう一つ飛び出した。
「次にボードゲームカフェに行く時は、先輩が料金を出してくださいね。お金に余裕ができてからでいいですから」
 吐息の余韻を声に含みながら、さつきは哄笑と微笑の中間の表情で言った。怜衣はぱちぱちと眩しげに何度か瞬きをした後、ぱっと花が咲くように「了解」と笑った。
 怜衣の笑顔を見つめながら、さつきはほんの少し目を細めた。
 明るさをまとって喋る声、切なげに震える声、嵐のような勢いで泣きに泣きまくる声。周囲の声がさつきの耳に入ってくる。ぴいぴいと陽気に鳴くスズメの声もついでに聞こえた。
 ゲームは終わる。学校で怜衣と過ごす時間は、さつきにとっては愉快なゲームだった。
 去りゆく時を惜しむ気持ちはさつきにもあったが、それでも胸中に感傷が満ちる気配はない。あるとすればせいぜい、卒業生が私物を持ち帰ったことで部室から去ってしまった、ボードゲーム達に対する惜別の念くらいのものだった。
 一つのゲームが終わるなら、新しいゲームを始めればいい、とさつきは思う。
 どこであろうと、いつであろうと、何であろうと、二人の合意があればゲームになる。ごく単純なそのルールが、過ぎ行くもの以上の楽しみをこれからも生み出していくと、さつきはけっこう信じていた。
「早速だけど、お互いのゲームで遊んでみたいな。部室にでも行こうか」
 ボードゲームの箱をビニール袋に戻しながら、怜衣は声を弾ませた。
「今日は部活動禁止です。それに、先輩は卒業したんだからもう入ったら駄目ですよ」
 さつきが言うと、怜衣は「そういえばそうだ」と膝をぽんと叩いた。
「じゃあ、三山原公園の休憩所でやろう。平日なら人もほとんどいないし」
「お金もかかりませんしね」
「その通り」
 怜衣は腕を組み、神妙な顔つきで頷いた。
「でも、自販機のジュースくらいは奢ってくださいよ。さっき私が勝った分」
「ジュースでいいのか? 私が勝ってたら1100円分のつもりだったのに」
「まあ、いいってことにしておきます。先輩の財布が軽くなりすぎるのも気の毒ですから」
 さつきが言うと、怜衣は「鶴見大明神様!」と拝むように手の平を合わせた。
 格式ばった声で「うむ」と返しながら、さつきはベンチに散らばったレシートを拾い上げ、財布の札入れに挟んだ。パン達がパンを振り回しているパッケージを紙袋に入れ直し、財布と一緒にバッグにしまい込む。ファスナーを閉じながら隣に視線を向けると、既に怜衣は荷物を片づけ、バッグを肩に掛けていた。
 怜衣は「よし」と小さく呟いて、ベンチから飛び跳ねるように腰を離した。揺れる髪が陽光をまとい、きらきらとまばゆい軌跡を残していく。
 束の間空を切った後、怜衣はベンチのすぐ前方に降り立った。着地点から踏み出さないまま振り向き、二ッと愉快げに歯をちらつかせた。片足でトントンと地面を踏み、挑むような瞳でさつきを見ている。
 新しいゲームが始まる。
 さつきはバッグの紐を握り、楽しみの向かう先へ、勢いをつけて跳び上がった。

サポートありがたいです。嬉しくて破顔します。