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【小説】狼河童のこと

 これから嘘の話をいたします。お付き合いいただけますか。……ええ、ええ、ありがとうございます。話さしていただきます。ありがたいことです、ほんとにどうも。
 まず、私が森に行った時の出来事とお思いください。……いえ、真っ暗い樹海みたいなね、鬱蒼というか、物騒というか、そういう森ではないんです。木の合間から空が見えて、日の光がぽかぽか差し込んできて、チチチと雀なんかが呑気に鳴いている。明るくって、暖かくって、モダンな――モダンてのは違うか。まあ、要するところ、綺麗で穏やかな森です。
 そこを私、ゆるりと歩いておりました。草木の匂いや鳥の鳴き声をお供にしましてね。揚羽の蝶々が気まぐれを起こして、肩に乗ってきたりと。のんびりした心地のいい道行です。……ええと、蝶々はお気に召しませんか。それなら代わりに天道虫とでもしておきましょう。よろしいですか。はい、はい、では天道虫。
 それで、天道虫と一緒に木々の間を進んでいくと、水の流れる音が聞こえてきます。透き通って底の石っころまで瞭然の、見惚れるような美しい川が行く手に見えて参りました。……おや、どうされました、悲しい顔をなさって。
 はあ、土砂で濁った波立つ川ですか。あの、申し上げましたけれども、日の光が差し込む森の中ですから。川だけ嵐の渦中てのも不自然といいますか――いえ、はい、嘘です、嘘の話ですが、嘘にも嘘なりの筋立てがありまして。ご希望通りの荒れた川とすると、後々に響いて困りますんで、どうかご寛如を願います。……ええ、ええ、ありがとうございます。そうまで川の荒れ方に拘りをお持ちとは、達者でございますねえ。
 話を進めますけれども、美しい川を見つけて、一息つこうという心持ちになりまして。川辺に座ってくつろいでいますと、何やら上流の方から大きな物が、どんぶらこっこと――ああ、早合点なさらないで、桃じゃございません。昔話じゃありませんからね。もっと現代的、モダンな話です。レトロ趣味も乙なもんですが、私としましては――おや、すみません。脇に逸れました、失敬、失敬。
 ええ、それで、何やら大きな物がどんぶらこっこと流れてきます。目を凝らしますと、どうも亀の甲羅に見える。亀としたらずいぶん巨大な亀です。珍しいなあと眺めていると、手前で甲羅がピタリと止まり、ざぶんとしぶきを上げて川から飛び出しました。……はあ、まあ、ざばんでもばしゃんでもぱしゃりでも、お好きな水音で構いませんよ。えっ、ぬんはり? ああ、ええと、その、そうですねえ、大変結構でございます。
 では、その……ぬんはりと水しぶきが上がりまして。川から甲羅が飛び出したと思うと、目の前に緑色の生き物が立っていました。私の腰くらいの体長で、頭には皿、顔に嘴、背中に甲羅。手足の指の間には水かきがありました。
 河童だ! 私は叫びました。河童のいる森だなんて思いもよりませんでしたから。驚いて一歩二歩と後ずさりしますと、向こうは一歩二歩と近づいてくる。何やらヒョオヒョオと甲高い声で喚き立てるのですが、よくよく耳を澄ましてみると、意味の通る言葉を発していました。……お褒めいただきありがとうございます。河童の声真似をそれほど気に入っていただけましたか。ああ、涙まで流されて、光栄やら恐縮やら。私ももらい泣きをしそうです、うう、ぐすっ、ズビビ。
 ええと、ぐず、何でしたっけ、ズビ、そう、河童の言葉。河童が何か言っているんです。耳を傾けると、私は狼だ、と聞こえる。河童ではなく狼だ、と。念を押すように何度も繰り返していました。一匹狼ってことかい、と私が尋ねますと、狼を名乗る河童はぺたぺたと地団駄を踏みました。比喩を言ってるんじゃない、本物の狼だ。そう主張するんです。
 こうなると水掛け論です。こっちは見るからに河童だと指摘するし、向こうはどう見たって狼だと反駁する。我々の言い合いに、肩に乗りっぱなしの蝶々も加わって、まさに丁々発止――あっ、しまった、蝶々は天道虫に変えたんだった。ええと、そうすると、参ったな、ここらで駄洒落の一つも入れたかったんですが。そうですねえ、激論に肩が揺れて天道虫が転倒しただとか、私の意見に天道虫がこくりと点頭しただとか、うっふふ……はい、はい、誠に申し訳ございません、本筋に専心いたします。いたしますからどうか、そんなに怖い顔をなさらないで。
 それで、そう、河童との言い合い。口では決着がつきそうもないので、私は懐から一本のキュウリを取り出しました。そいつを河童に差し出すと、目を爛々と輝かせて引っ掴み、美味そうにぼりぼりと齧り始めたんです。……調味料ですか。はて、考慮にありませんでした。味噌でも添えておきましょうかね。カスタードクリーム? ううん……ええ、まあ、心底それがお望みであれば、ご意思の通りにいたしますとも。
 そういう次第で、カスタードクリームを塗りたくったキュウリに河童は齧りつきました。そら見たことか、やっぱり河童に違いない。私は嵩に懸かって言い立てました。キュウリといったら河童の好物ですからね。カスタードの方は知りませんが。
 河童はばつが悪そうに黙り込んだと思うと、ペロと舌を出しました。食べかけのキュウリを握ったまま、ぬんはりと水音を立てて川に飛び込み、スイスイ泳ぎ始めます。端っからこっちをからかう魂胆で、バレたからそそくさ逃げようってわけでしょう。全くとんだ嘘つき河童。狼少年て話がありますけれども、あいつはさながら狼河童ってとこでしょうか。
 あっという間に河童の背中は離れていきました。泳ぎっぷりはまさしく巧妙、河童の面目躍如といった風情です。呆れと少しの賛嘆を視線に込めて、上流へと消えていく後ろ姿を、私と天道虫はしばしの間見送っておりました。
 ――とまあ、嘘つきの河童に出くわしたと、そういうお話でございました。御清聴ありがとうございます。長々と失礼いたしました。
 ……えっ、本当の話かって? いえ、いえ、最初にお断りした通りです。嘘ですよ、嘘っぱち、作り話でございます。まあ、以前森へ行った時の記憶が一応の下地ではありますが、たっぷり脚色を加えてますから、原型なんてほとんど残っちゃいません。
 本物の森は綺麗でも穏やかでもなく、昼間だろうと薄暗くって居心地はいまいち。澄んだ川だってちっとも見当たりませんでした。気のいい蝶々や天道虫の道連れもいません。蚊なら数匹まとわりついてきましたけれども、こっちの血が目当てでしょうから、道連れと言っていいものかどうか。
 それにもちろん、都合よくキュウリを持ち歩いてもいませんでした。ですから、森で出くわしたあいつが狼なのか河童なのか、実際には分からず終いでしたよ。

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