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ヤボの天ぷら

「お客さん。それを聞くのは野暮ってものです」
 背の高い店員は地面から響くような低い声で言った。
 店員の言葉に戸惑ったように目を瞬かせる青年を横目で見ながら、本宮宥もとみやゆうは「ヤボ」の天ぷらに齧りついた。さくりとした衣をくぐって、ほのかな苦味とつゆの甘辛い風味が、口の中に染み入っていく。
 先日全く同じことを言われたな、と宥はもしゃもしゃと顎を動かしつつ思う。もしかすると、同じ経験をした人達が、他にも多くいるかもしれなかった。
 宥が今いる「月の輪」は、鹿延かのぶ駅南口のそばにある天ぷらの専門店だ。駅から徒歩一分という立地のためか、腹を空かせた人々が、ふらりと気まぐれに入ることも多いようだった。ひと月ほど前に宥が初めて訪れた時も、きゅうきゅうくるると哀れっぽく鳴く腹を宥めるために、目についたこの店に飛び込んだのだった。
 専門店というだけあって、頼める品の大部分が天ぷらだ。品書きを開いてみれば、黄金色の衣をまとった魚介や野菜の絢爛な写真が目を引く。
 盛り合わせや定食のほか単品もあり、エビ、イカ、ナス、マイタケといった名前が品書きに並ぶ。その中に一つ、奇妙な言葉が混じっていた。
 ヤボ、と書いてある。
 最初に来店した時、宥は品書きからその言葉を見つけ、眉根を寄せた。宥はヤボと呼ばれる食材を思い浮かべようとしたが、ホヤしか浮かんでこなかった。持ち歩いているスマートフォンで検索してもみたが、結果には「野暮」の方が出るばかりで、食材らしいものは見当たらなかった。
 宥は背の高い店員に声をかけ、「ヤボって何ですか」と質問をした。店員はニイと歯をむき出して、地面から響くような低い声で言った。
「お客さん。それを聞くのは野暮ってものです」
 その時の店員の得意げな顔つきを思い返しながら、宥は隣席をちらりと見た。以前の宥と同じ質問をし、同じ返答をされた青年は、困惑と苛立ちの混じった表情でおしぼりの袋をねじり回していた。
 宥は何度か来店し、同じような質問を別々の店員にしたが、毎回同じ返事が返ってきた。一体どういう理由があるのか、店側は客にヤボのことを教える気はないようだった。
 宥は目の前の皿から、箸で一つヤボの天ぷらを持ち上げた。衣越しに見える姿は緑色で細長く、オクラに似ている。そのままそれを口に運ぶ。噛むと柔らかい歯触りがあり、爽やかな苦味と旨味が口内に広がっていった。店独特のつゆと相まって、中々の美味ではあった。
 外見や食感からして、野菜の類だろうとは推測できる。それ以上のことは、今でも宥には分からなかった。
 ここ数週間、宥は時間を見つけてはヤボの調査を行っていた。
 まず宥はウェブで情報を探したが、食材あるいは植物としてのヤボに関する記述は、ほとんど見つからなかった。数少ない記述も「月の輪という店でヤボを食べた」「ヤボとは何だったのだろう」という類のもので、参考になる情報ではなかった。続いて宥はいくつかの図鑑をあたったが、これも成果は得られなかった。食材や植物に通じた何人かの友人知人に相談してもみたが、誰もヤボなどという野菜は知らないという。
 渋い顔をしながら宥はヤボを食べ進めていく。
 今食べているこれは、一般に知られていないような、珍しい野菜なのだろうか。あるいは店が勝手にヤボと呼んでいるだけで、別の名前では知られている野菜なのだろうか。
 宥の思考はくるくると空転し、その間も天ぷらは体内へ消えていく。頭の中も腹の中も、ヤボばかりになっていくようだった。
 宥がヤボに興味を抱くのは、一つには仕事のためだった。
 宥はウェブメディアの運営に携わっている。主として、特定の地域や人々の間でしか知られていないような、珍しい事物を紹介するメディアだ。掲載する記事は、知人のライターに作成を依頼することもあるが、自分で書く場合も多い。記事のネタになりそうな物や出来事に対しては、宥はいつも注意を払うようにしていた。
 つい注意を払ってしまう、と言うべきかもしれない。気に留まることがあると、すぐさま調べたり考えたりしたくなる傾向が宥にはあった。宥にとって、ヤボのような未知の事物を調べることは仕事の一環であり、好奇心の命じる衝動でもあった。
 思考の空転を続けながら宥は皿に箸を伸ばした。箸は空気を掴んでカチリと小さく音を立てた。宥が皿に目を向けると、天ぷらはそこに無かった。満腹感が天ぷら達の行き先を告げていた。
 宥は浮世絵風の筆致で熊が描かれた湯呑みを手に取り、ごくごくと水を飲んだ。ふっと小さく息を吐いて、傍らに置いたバッグから財布とスマートフォンを取り出す。
 メールアプリを起動し、宥は受信ボックスの中から一つのメールを開いた。何行か続く本文の中に、今日と同じ日付と、今から三十分ほど経った時間が記載されている。また、宥が今いる月の輪の周辺を含む鹿延の地図が、画像ファイルとして添付されていた。
 宥は地図を見て、鹿延駅から伸びた青い線を目で追っていく。線は月の輪の近くを掠めるように通っていき、しばらく真っ直ぐ進んだ後、「土上楼閣」と書かれた地点にたどり着いた。字面からは想像しづらいが、土上楼閣というのは店の名前で、野菜やハーブの販売店だということだった。
 宥は今日この後、土上楼閣の店主と会う約束をしていた。ヤボについてあちこち聞いて回った末、友人に紹介されたその人物は、ヤボについて知っている「可能性がある」らしかった。少々確度の怪しい話ではあったが、宥としてはそれ以外に掴める藁もないのだった。
 期待と不安を等量ずつ抱きながら、宥はメールアプリを閉じた。バッグにスマートフォンをしまい、「ごちそうさまでした」と口の中で呟く。バッグを肩にかけ、財布と伝票を手に持って席を立った。
 背の高い店員を相手に会計を済ませて、宥は入り口の引き戸を開けた。一歩外に踏み出すと、正午過ぎの日差しが頭上に降ってくる。店のそばに立つ枝垂桜は青々として花の名残もなく、見る者に新緑の時期を感じさせていた。
 店の手前にはレンガ敷きの坂道が通っている。降りていけば鹿延駅は目の前だ。宥は駅前のロータリーにバスが入っていく様子をちらりと見た後、反対側に視線を向けた。緩やかな斜面が長く遠く続いている。
 先ほど見た地図を頭に浮かべながら、青い線が示す目的地を目指して、宥は坂道を上り始めた。

 薄赤いレンガの坂を歩きながら、宥は安土映理あづちえいりのことを考えていた。
 映理は宥の高校時代の同期生だった。同じクラスには一度もならなかったが、何度か会話を交わす機会はあった。とはいえ、友人というほど親しかったわけではない。卒業してからは一度も会っておらず、現在はどうしているのか、所在も動向も知らなかった。
 だから、唐突に友人から映理の名前を聞いた時、宥は過去に戻ったような気分になった。
 宥がヤボについて尋ねまわった人々の中に、植物園に勤務している友人がいた。その友人自身はヤボを知らなかったが、知っているかもしれない人を知っていた。
 名前を安土映理といい、野菜やハーブの販売店を鹿延で開いている。他では見ないような植物も取り扱っているから、ヤボのことも何か知っているかもしれない。といった具合に友人は教えてくれたが、宥は映理の名前を聞いた時点で動転し、その後をほとんど聞き逃した。
 宥は友人に、その人物の口調や外見なども聞いてみたが、どうやら同名の別人ではなく、宥の知る彼女のようだった。
 友人を経由して宥は映理と連絡を取り、会う約束を取り付けた。ヤボの話を聞くだけであればメールやビデオ通話という手段もあったが、宥は数年越しの映理に直接会ってみたかった。
 映理の姿や言動を遠い記憶から思い返しつつ、宥は坂道を行く。上り坂だが傾斜は緩やかで、それほど歩きにくいということはない。とはいえ宥は、カメラやノートPCなど、それなりに中身の入ったバッグを肩に掛けていたから、少々骨の折れる道筋ではあった。じっとしていれば暖かい陽気は、動いているとやや暑い。宥は首筋に汗の気配を感じて、バッグの外側にあるポケットからタオル地のハンカチを取り出した。
 汗を拭きながらしばらく歩いていくと、徐々に傾斜がなくなっていき、平坦な道になった。宥が辺りを見回すと、いくつかの住宅と小さなコンビニが目に入った。人の気配は少なく、どこかで鳴くスズメの声が目立って聞こえるほど静かだった。
 宥の視界にふと「可食植物専門店」の文字が入った。その文字は白い柵の前に置かれた看板に書かれていて、隣には大きく「土上楼閣」とある。
 柵の向こうには芝生の庭があり、いくつものプランターが並べられていた。庭の中央を石造りの道が通っていて、その先には灰色の壁の建物があった。
 宥は庭に足を踏み入れた。プランターを近くで見ると、イチゴが赤い実をつけていた。それ以外の植物は、宥には見ても分からなかった。やたらに細い茎が土から無数に飛び出しているもの。岩塊のようなごつごつした黒っぽい実が生っているもの。土ではなく白い石が敷き詰められ、その上を琥珀色の蔓が蜘蛛の巣のように覆っているもの。
「興味がおありなら試食もできますが、いかがですか」
 プランターを胡乱げに見ていた宥の背後から声がかかった。不意のことではあったが、宥は驚きよりも懐かしさを感じた。やや低めのよく通るその声は、宥が坂を上りながら取り出した記憶と一致していた。
「美味しいの?」
 宥は振り向いて言った。中途半端に伸びた真っ黒い髪を無造作に垂らし、濃い灰色のシャツと薄い灰色のカーゴパンツを着た灰色づくめの人物がそこに立っていた。
「イチゴは美味しいですよ」
「それ以外は? この黒いやつとか」
「蓼食う虫も好き好き、といったところでしょうか」
 つまり不味いんだな、と宥は苦笑する。
 丁寧だがどこかとぼけた話し方に、宥は再び懐かしさを覚えた。声や姿も含め、ほとんど宥が覚えている通りの安土映理が目の前にいた。
 宥は本当に高校時代に戻ったような気分になり、デジタル腕時計の年月日を確認した。もちろん過去ではなかった。
「その時計、高校の頃も着けていましたね」
 映理が言った。
「そうだけど、よく覚えてたね」
 宥は目を丸くして言った。映理の言う通り、宥は高校生の頃に買った腕時計を今でも使っていた。
「特徴的な時計ですから。ベルトに孔雀のような山椒魚のような不思議な生き物が描いてあって、忘れようがありません」
「これは犬だよ」
 宥が言うと、映理は口角を上げて愉快げに笑った。
 宥としては間違ったことを言ったわけではなく、時計のパッケージには確かに犬のキャラクターだと書いてあった。とはいえ、横に長いのっぺりとした顔つきをし、七色の派手な尾を生やしたその生物が、どうにも犬に見えないのは確かだった。
 宥はふっと吹き出すように頬を緩めた。高校時代に似たようなやり取りをした記憶があった。映理もそれを覚えていて、あえて同じことを言ったのか、それともすっかり忘れていて、全く同じ感想を抱いたのか。いずれにしても、数年の空白を経てなお、かつてのように会話できていることが宥には嬉しかった。
「さて」
 映理は表情を平板に戻して、灰色の建物の方に親指を向けた。建物の手前側にはテラスが張り出していて、そこにテーブルと椅子が置かれていた。
「座って話しましょう」
 そう言って映理は歩き出した。宥は後ろをついていく。テーブルのそばに来ると、映理は椅子の一つを手の平で示した。宥がそこに座ると、映理は向かい側の椅子に腰を下ろした。
 テーブルには白い布が置かれていた。布はところどころ膨らんで、下にあるものの形をぼんやりと象っている。映理が布を手に取り、畳んでテーブルの端に置いた。ティーポットと二つのティーカップが、テーブルの上に姿を見せていた。
 ガラス製のティーポットには薄い黄緑色の液体と、いくつかの干からびた細長い葉が入っていた。宥はお茶にはあまり詳しくなかったが、外見からしてハーブティーの類だろうとは理解できた。
 映理がポットから二つのカップへ液体を注ぎ、「どうぞ」と言って宥の前に一つを差し出した。
 宥がカップを手に取ると、すっと透き通るような香りが漂った。一口含んでみると、果物のような瑞々しい風味と、柔らかい甘味が舌の上を通っていく。
 二口、三口、四口。宥はごくごくとカップの中身を減らしていった。ここまでの道のりで少々疲れた体に、ひんやりとした水分が染み入るようだった。
 ふうと息を吐いて、宥はカップを置いた。
「これ、美味しいね。何ていうハーブ?」
「シマタシクです」
「へえ、初めて聞いた」
「そうですか。私も一昨日初めて聞きました」
 映理の言葉に宥は目を見開いた。
「隣県の湿地で採れるそうですよ。これも一昨日知った情報ですが」
「……こうやって飲んでいいものなの?」
「毒性がないのは確認しています」
 映理が事務的な調子で言う。宥は顔をしかめて、カップに残った黄緑の液体を見つめた。
「試しに抽出してみたんですが、中々美味ですね」
「よく分からないものを飲ませないでよ……」
「ですがこれ以外にも、よく分からないものを口にしたでしょう」
 映理の言葉に宥はさっと顔を上げた。シマタシクの方も気にはなるが、本題はそちらではなかった。
「ヤボと呼ばれる植物について」
 映理は両手を組んで、厳かに言った。宥はバッグからB5サイズのノートとボールペンを取り出した。メモを取るために普段から使っているものだった。
 宥は顔を引き締め、ギュウと強くボールペンを握った。映理は重々しく頷き、ゆっくりと言葉を継いだ。
「私も知りません」
 映理が言うのを聞いて、宥はぽかんと口を開けた。映理はく、く、と短く息を吐いて、愉快そうに笑っている。
「というのは誇張です。多くは知らない、と言った方が適切でしょうか」
 薄っすらと笑みを浮かべながら映理が言う。宥が睨みつけると、映理は宥めるように手の平を掲げた。
「まあ、聞いてください。私もあなたと同じくヤボに関心があって、ここしばらく調べていたんです。商売上の伝手をたどって手を尽くしたところ、ヤボを知っている、という人が見つかりました」
「じゃあ、ヤボの正体が分かったの?」
 宥が興奮気味に言うと、映理は「どうでしょう」と考え込むような顔をした。
「食用ヤボの販売業者だと名乗っていましたが、どうにも胡乱な人でした。ヤボについてあれこれ質問しても、『買って実物を見てください』の一点張り。では買いますと伝えれば『あなたには無理です』と手を叩いて笑い出す始末」
「無理、ってどういうこと? 高いの?」
「一般に流通している野菜よりは多少高価ですが、買えないような額ではありません。ただ、購入には条件があって、それを満たすのは無理だというんです」
 そう言って、映理はシャツのポケットからスマートフォンを取り出した。指で何度か操作した後、テーブルに置いて宥の方へ差し出した。
 長方形の液晶には地図アプリで鹿延周辺が表示されていた。現在地を示す青い点から2kmほど離れた場所に丸いアイコンがあり、そこから南東に向かって緑色の領域が広がっている。
「丸印の辺りは森林になっています。その森林の一角にヤボの販売所があって、直接そこに行かなければ買うことはできないそうです」
「その販売所を探し出せってことか……」
 宥は呟くように言った。わざわざそんなことをさせる意図は分からないが、広い森からどことも知れない販売所を見つけ出すとなれば、確かに相応の困難が予想される。しかし映理は首を振って、「そうではありません」と言った。
「頼めば案内してくれるらしいんです」
「えぇ? それなら、無理どころか簡単に行ける気がするけど」
「私もそう言いましたが、件の業者は『では試してご覧なさい』と冷ややかに笑っていました」
 映理が言った。宥は戸惑って「んん」と意味をなさない声を発した。
 有力な情報のはずだったが、映理の言った通り、どうにも胡乱な話だった。宥は聞いた内容を頭の中で検討しようとしたが、思考の端緒を掴みかねていた。
「まあそういうわけで、今のところは何が何やら分かりません。これ以上ヤボの情報を得るには、虎穴に入ってみるしかないでしょう」
 映理の言葉を聞いて、宥の頭に閃くものがあった。会合の日時と場所を取り決めた際のメールに、「森に入る可能性があります」という文言が含まれていた。それを読んだ時、宥は森に生えたヤボを見に行くのかという期待を抱いたが、どうやら当たらずとも遠からずという状況のようだった。
「今日この後、その業者に販売所まで案内してもらう手筈になっています」
 映理は小さく微笑んで、「あなたはどうしますか」と付け加えた。
 宥は黙り込んだ。行こう、行くべきだ、行け、と好奇心が騒いでいた。警戒心の方は、そんな怪しい話に乗るな、と言っている。真っ当な指摘だったが、その声は好奇心に比べるとずいぶん小さかった。
 映理はティーカップを手に取って、シマタシク茶を飲んでいた。沈黙の時間が流れていく。
「私も行く。行きたい」
 衝動を抑えられず、とうとう宥は言った。我が意を得たり、と好奇心が快哉を叫ぶ。警戒心は呆れて何も言えないようだった。
「では行きましょう。ティータイムの後に」
 映理はそう言って、ゆったりとした手つきでカップを口元に持っていった。
 宥は映理に倣って自分のカップに口をつけた。シマタシクの爽やかな風味が逸る気分を落ち着けてくれることを期待したが、どうやらあまり効果はなく、むしろ目が冴えてくるような気さえするのだった。

 道沿いに置かれた熊の石像の傍らに、宥と映理は立っていた。
 熊の像は宥の腰の高さくらいの大きさをしている。全体としては写実的な造りだが、顔つきは柔らかく愛嬌があり、宥は何とはなしに心が和むように感じた。
 石像の背後には無数の草木が並び、暗緑色の空間を作り出している。これからこの森に分け入る段取りだが、それはヤボの販売業者を名乗る人物が来てからのことだった。
 そろそろだろうか、と宥が思うのとほぼ同時に、「お待たせしました」という声が聞こえてきた。宥は声のした方を向き、ぎょっと驚いて一歩後ずさりした。
 熊の面で顔を覆い、真っ黒い作務衣を着た人物がそこに立っていた。
 獣の毛のようなものがびっしりと生えた面は、厳めしい熊の顔立ちを緻密に象っていた。石像の愛らしさとは全く異なり、今にも牙を剥いて飛び掛かるような容貌だった。
 黒い髪を全て後頭部で束ね、背丈は子供のように低い。小柄な体躯ではあるが、面の威圧的な存在感のためか、実像よりずっと巨大な生物を前にしている印象を宥は感じた。
「今日はよろしくお願いします」
 そう言いながら、映理は面の人物に近づいていった。宥もそれに続き、ゆっくりと歩を進めた。
「そちらさんはお初ですねえ。私は熊面童子ゆうめんどうじと申します」
 面の人物がくぐもった声で言った。宥はごくりと唾を飲み込んで、「本宮です」とだけ返した。
 販売業者を称する人物が熊面童子と名乗ったという話を、宥はここに来るまでの道すがら映理から聞いていた。明らかに偽名の類だが、確かにその名前の通り、熊の面をつけた子供のような姿ではあった。
「安土さんには以前申し上げましたが、お二方が販売所にたどり着くのは無理だと思いますよ。出鼻を挫くようで申し訳ありませんが」
 熊面童子が嘲るような口調で言った。宥は反感を覚えたが、表情には出さず「どうしてですか?」とだけ言った。
「ま、それは後のお楽しみということで」
 熊面童子はそう言って、立ち並ぶ木々の間へ続く道を手の平で示した。
「離れずついて来てくださいよ。迷ったって私は知りませんからねえ」
 熊面童子はひっひ、と笑い声を上げながら、森の入口へと向かっていった。宥が映理の方に視線を向けると、映理は頷いて「行きましょう」と歩き始めた。宥は深呼吸を一度して、映理と並んで薄暗い緑の中へと入っていった。
 森林内の地面は大部分が草や苔で覆われていたが、一部は土が露出して道のようになっていた。そこを熊面童子が早足で進み、少し距離を空けて宥と映理がついて歩いていく。
 先頭を行く熊面童子の歩みは速く、ゆっくりと周囲を眺めたり写真を撮ったりする余裕はなかった。それでも宥は、木々が悠然と立ち、一面に草花が青々と茂り、葉や枝の間から陽光がさらさらと差し込む光景を、快いと感じていた。宥は呼吸をする度に、森に満ちる瑞々しい香りを感じる気がした。
 三人は何も言わず森の中を進んでいった。三人分の足音、どこか遠くでキジバトが鳴く声、耳元を掠める小さな虫の羽音を聞きながら、宥は忙しく足を動かした。
 しばらく歩いていくうちに、宥は自分の体が段々と重たくなっていく感覚を覚えた。足を動かすのが億劫になり、肩にかけたバッグが岩のように思えてくる。頭もぼうっとして思考が鈍り、何度も繰り返し欠伸が出る。歩き疲れたのだろうかと宥は考えたが、それにしても急激な変化ではあった。
 宥は拳をぐっと握り、熊面童子の歩調についていこうと試みたが、黒い作務衣の背中は少しずつ遠ざかっていった。一瞬視界がぼんやりと霞み、足がもつれて前に倒れそうになる。
「大丈夫ですか?」
 気づくと宥は、映理の腕に体を支えられていた。宥ははっと体を起こし、「ごめん、ありがとう」と映理に言った。映理は小さく笑みを返したが、目元や頬が強張ってぎこちない。宥を支えていた腕が、力を失ったようにだらりと垂れた。
「お二方とも、ずいぶんお疲れのご様子ですねえ」
 熊面童子の声が間近でするのを聞いて、宥はぎょっと目を見開いた。前方を歩いていたはずの熊面童子が、いつの間にか宥達の目の前にいた。熊の鼻先が左右に動く。面の向こうから宥と映理の顔色を交互に見ているようだった。
「まだ道のりの半分にも達していないのに、これでは先が思いやられますねえ」
 そう言って熊面童子はひっひ、と笑い声を上げ、愉快そうに手を叩き始めた。
「お辛いなら引き返しても良いんですよ」
「お気遣いありがとう。私は大丈夫ですが……」
 映理が素っ気ない調子で言って、宥の方にちらりと視線を向けた。宥は「私も平気です」と首肯した。
「そうですか。じゃあ行きましょう」
 熊面童子はつまらなさそうに言って、再度早足で歩き出した。数歩遅れて映理が続く。宥は拳にぐっと力を入れ、小石を踏みながら大股で歩き始めた。体が気だるく重たい感覚は消えていないが、熊面童子の言動に対する反感が、宥に前進の意志を供給していた。
 絶え間なく忍び寄ってくる眠気を防ごうと、宥は顔中にあらん限りの力を込めた。憤怒にも似た表情で歩き続けていると、隣で吐息のような声がした。宥が顔を横に向けると、映理が咳のような短い呼吸を繰り返していた。宥の脳裏に先ほど見た映理の苦しげな微笑がよぎった。
「どうしたの?」
 宥は急くように声をかけた。映理は呼吸を荒く乱しながら、すがりつくように宥の肩に手を置いた。
「不動明王みたいな表情になってますよ」
 く、く、と短く笑い声を上げて映理が言った。宥は顔から一切の力を抜き、映理の手を邪険に振り払った。
「心配して損した」
「ああ、やめてしまうんですか。眠気覚ましにちょうど良いと思ったんですが」
「眠気覚まし?」
 宥は眉根を寄せて言った。
「やっぱり、安土さんも眠いんだ」
「ええ。あなたもそうですよね。だから不動明王になった」
「なってない」
「妙だと思いませんか?」
 映理の言葉に宥は沈黙した。妙とまで言えるか宥には確信がなかったが、現状に違和感があるのは事実だった。
 宥は体力にはそれなりに自信があったし、少なくとも現在程度の運動量で、今ほど強い眠気や倦怠感を覚えた記憶はなかった。加えて映理も同時に似たような状態にあるならば、確かに不可解な状況かもしれない、と宥は思う。
「この森に販売所があると聞いて、少し調べてみたんです。といっても大した情報は得られませんでしたが、一つ奇妙な噂を聞きました」
 前を歩く熊面童子の背中を見ながら映理が言った。
「森を歩いていると急に強烈な眠気がやってきて、耐え切れずその場で眠り込んでしまった。目を覚ますと、森の入口にある熊の石像の前に寝転んでいた。……一年前この森に入った人が、そんなことを話していたというんです」
 映理が言うのを聞いて、宥は息を呑んだ。
「ありそうにない話だと思っていましたが、認識を改めるべきかもしれませんね」
「じゃあ、私達の不調には、この森が関係してるってこと?」
「状況からすると、可能性はあります。例えば」
 映理は言って、道の左側を人差し指で示した。足は動かしつつ宥が左に視線を向けると、道の端に沿うようにして、ぎざぎざと尖った青白い葉の植物が生えている様子が見えた。右側にも視線を向けてみると、そちらも同様に青白い葉がずらりと並んでいる。
「あの青白い植物は『バタイヤ』という種類に似ています」
「バタイヤ……初めて聞いた」
「私も一昨日知ったばかりです」
 またそれか、と宥は苦笑する。
「バタイヤの芳香には眠気や気だるさを催す成分が含まれるそうです」
「じゃあ、それが」
 宥は目を見開いて言った。映理は首を横に振って「あくまで可能性です」と返した。
「バタイヤ自体は、間近で思い切り息を吸ったとして僅かに効果がある程度らしいですから、この状況の立役者とするには無理があるかもしれません。より強い作用を持った近縁種という可能性もありますが、いずれにせよ憶測ですね」
「でも、あり得ないことじゃないわけだ」
「ええ。あの植物か、別の原因かは分かりませんが、この森にいると眠くなるというのは、全くの論外というわけでもなさそうです」
 映理が言って、くたびれたように息を一つ吐いた。
 宥はぼやけそうになる頭をどうにか動かし、思考を巡らせた。
 映理の話を考慮すれば、熊面童子がヤボの購入を「無理」と断じた理由が推察できる。熊面童子はこの森の性質を知っていて、宥や映理が販売所に着くより先に、耐え切れず踵を返すか、あるいは森の中で限界を迎えるか、そういう顛末を想定しているのだろう。
 ただ、その場合熊面童子がどうやって眠気を防ぐのかは謎ではあった。あの熊の面に仕掛けがあるのだろうか、と宥は先を行く黒い作務衣の背中をじっと見たが、そこに答えが書いてあるはずもなかった。
「森に原因があるのなら、このまま進めば私達の状態は更に悪化していくかもしれません。熊面童子の言う通り、引き返すという選択肢もありますが……」
「行けるだけ行ってみようよ」
 宥は言って、両手を強く握りしめた。少しずつ苦しさが増している感覚はあったが、熊面童子の思惑を崩したいという反骨精神、ここまで来たのに引き返したら勿体ないという貧乏根性、そして何より、ヤボの正体を知りたいという好奇心が、蛮勇じみた前進を宥に命じていた。
「そうですね。もうしばらく頑張ってみましょう」
 映理は微かに頬を緩めて言った。
 宥は唇を引き結んで、前に進むことに意識を集中し始めた。その副作用として憤怒する不動明王のような形相に戻っていたが、宥自身は全く気づいていなかった。

 森の中をどれほどの時間歩いているのか、宥は分からなくなってきていた。
 腕時計を確認する気力も湧かず、意味をなさない呻き声を発しながら、惰性と無意識で足を動かしている。気を抜くとその場に倒れ込んで、そのまま眠りに落ちてしまいそうだった。
 土が露出した道はいつしか途絶え、三人は生い茂る草をかき分けながら歩いていた。熊面童子は森に入った当初より歩く速度を落としていたが、足取りは軽やかで疲労や眠気の類はないようだった。時おり宥達の方を振り返り、「無理はいけませんねえ」「そろそろお帰りになってはいかがです」などと言って囃し立てる。
 宥はギギギと錆びた歯車のように首を動かして、隣を歩く映理の方を見た。映理は瞼を七分ほど落とし、茫洋とした表情で歩いていた。足取りは不器用なマリオネットのように不規則で頼りなく、一歩進む度に全身が不安定に揺れている。
「調子はどう?」
 もつれそうになる舌を駆使して、宥は映理に声をかけた。明るい声色を作ったはずだったが、実際に出たのは妖怪じみたしわがれ声だった。
「風の前の塵に同じ、といったところです」
 木の葉が擦れる音と大差ない声で映理が言った。宥はほとんど反射的に「諸行無常!」と呟いた。映理は口角を僅かに上げて、微笑未満の表情を作った。
「そういえば、以前こういう森の中で、奇妙な植物を一緒に見たことがありましたね」
 回転が止まりかかった宥の頭は、映理の言葉をすぐに解釈できなかった。見つめ返したまま宥が黙っていると、映理は小さな吐息を漏らして微かに笑った。
「覚えていませんか? 高校の行事でキャンプに行った時のことです」
「あぁ……」
 映理が付け加えた言葉を聞いて、宥の思考は少しだけ動き始めた。遠い記憶の棚から、高校時代のキャンプの場面がゆっくりと引き出されていく。
 森の中のキャンプ場で一晩過ごした次の朝だった、と宥は思い返す。ずいぶん早い時間に目が覚めて、友人も教師も誰も起きていなかった。宥は時間と眠気を持て余し、欠伸をしながら木々の間を散策していると、木の傍に座ってじっと一点を見つめるジャージ姿の人物を見つけた。隣のクラスとの合同授業で何度か会ったことがあり、安土映理という名前だけ宥は覚えていた。
 少しの間宥は様子を見たが、映理は同じ体勢のまま動かない。宥はゆっくりと近づき「何を見てるの?」と声をかけた。映理は顔を宥の方に向けて、やや低いよく通る声で返答した。
「分かりません」
 想定になかった返事に戸惑い、宥は言葉に詰まった。困惑する宥の表情が可笑しかったのか、映理は小さく笑みを浮かべて、先ほど見ていた木の根元を指した。宥がそこを覗き込むと、黒っぽい獣の毛のようなものに覆われた茎から、オクラに似た形の実がいくつも放射状に伸び、それらの周囲を細長い葉が螺旋を描くように包んでいるという、見慣れない形状の植物が生えていた。
 その後しばらくの間、宥と映理は植物の正体について議論を行った。というより、お互いの空想じみた推測を披露し合った。それまでほとんど交流がなかったにしては、滑らかに二人の会話は進んでいった。特に納得のいく結論が出たわけではないが、眠気を忘れるくらいには愉快な時間だった、と宥は思い返す。
「あのオクラの怪獣みたいなやつ、何だったんだろう」
 閉じそうになる顎をこじ開けるようにして、宥は言った。
「未だに分かりません。度々思い出しては調べているのですが」
「分かったら私にも教えてくれる?」
「ええ、そうします。まあ、今のところはヤボで手一杯ですけどね」
「そうだね……」
 宥はほとんど吐息のような声で言った。
 終わりかけの蚊取り線香のように燃え尽きそうな意識を、宥は映理との会話によって引き留めていた。自分が何を言っているのか、映理が何を言っているのか、遠くでキジバトが何と鳴いているのか、何もかも曖昧になり始めていたが、構わず宥は掠れる声で喋り続けた。映理と交わす言葉が、迫りくる眠気に抗う最後の火種となっていた。
「ご歓談中のところ失礼します」
 不意に木々を震わすような大音声が辺りに響いた。あまりの音量に宥は肩を跳ね上がらせたが、副産物として少しだけ眠気を忘れることができた。
 声のした方を宥が見ると、熊面童子が足を止めて宥達の方を向いていた。熊面童子の両隣には、一際太く高い二本の大木が、空を支える柱のように立っていた。
「まさかあなた方がここまで来られるとは、全く思いもしませんでしたよ。いやあ、お見事というほかありませんねえ」
 ぱちぱちと手を打ちながら、陽気な調子で熊面童子が言った。
「今まで案内してきた連中は、森に入って五分もすれば地面に寝っ転がっていましたよ。フラフラになってぶっ倒れる様子や、間の抜けた寝顔でいびきをかく様子なんかが実に愉快でねえ。それを眺めて思う存分笑いこけるのが、毎度の楽しみなんです。今回もそうなるはずだったんですが……」
 熊面童子はそこまで言って、言葉を途切れさせた。少しの間黙って立ち尽くしていたが、不意にぶおおう、と長く大きい息を吐いた。その瞬間、木々の間に猛烈な突風が吹き荒び、無数の葉を枝から吹き飛ばした。吹き飛んだ葉が一枚、勢い良く宥の額に当たり、宥は「いてっ」と呟いた。 
「なぜお前達は眠らない? 小さくて弱い生き物のくせに」
 獣の咆哮にも似た、雷鳴のような声で熊面童子が言った。宥の耳朶が、続いて全身が、ビリビリと痺れるように震えた。宥は呆気に取られて熊面童子を見つめた。眠気に苛まれる脳が錯覚を起こしたのか、子供のように小柄な熊面童子の体躯が、数倍も数十倍もある巨大な怪物に見えた。
 宥の右足は危機を感じて後ろに下がろうとした。宥の左足は映理を庇おうと前に出ようとした。
「……ストレッチですか?」
 映理が宥の方を見てぽつりと言った。宥は自分の体勢を確認し、両足をそそくさと元の位置に戻した。
 ぱちんぱちんと手を叩く音が鳴り響いた。熊面童子がひっひ、ひっひ、と息苦しそうなほど笑い声を上げていた。宥は熊の面の中央辺りを睨みつけたが、意に介さず熊面童子は手を打ち鳴らし笑い続けた。
「ひっひ……ま、よござんす。約束は約束ですからね。さあ、こちらへどうぞ」
 愉快げな声色で熊面童子が言い、軽やかな歩調で二本の大木の間をくぐり抜けた。宥は映理と顔を見合わせ頷きを交わし、隣り合って大木の元へと進んでいった。
 宥は熊面童子の大声によって少しだけ眠気や気だるさを忘れていたが、消えてなくなったわけではなく、苦しみはすぐに全身へと戻ってきた。宥は拳を握り、歯を食いしばり、鬼神もかくやの相となって、出涸らしのような意識を保ちながら歩いた。
 何度か足がもつれ転びそうになりながら、ようやく大木に囲まれた隙間をくぐると、宥の目の前に木造りの小屋が見えてきた。周囲は広場のように開けていて、陽光が葉や枝に妨げられず降り注いでいる。
 小屋のそばには耕された地面が広がっていた。そこに覆い被さるようにして、濃い緑色の植物が並び生えている。
 熊面童子は何も言わず、畑であろうその領域を手の平で示した。宥の思考はほとんど途切れかけていたが、求めていた答えがそこにあることは理解できた。
「ヤボ」
 掠れ切った声で宥は呟いた。隣に顔を向けると、生気のない顔をした映理と目が合った。映理は緩やかに頷き、微かに笑うような表情をした。
 二人並んで、ヤボ畑の近くまで歩いていく。霞む目でも見える距離まで近づいた時、宥は瞳を大きく見開いて「あっ」と短く声を上げた。
 黒っぽい獣の毛のようなものに覆われた茎から、オクラに似た形の実がいくつも放射状に伸び、それらの周囲を細長い葉が螺旋を描くように包んでいる。いつか見た形状の植物が、一面に生い茂っていた。
 宥は眠気も体の重さも忘れ、目の前の光景に見入った。すぐ隣で映理が「やっと、分かった」と囁くように言った。
「この森は先祖代々受け継いだ土地でしてね。身内以外にこの畑を見せたのは初めてですよ」
 夢中になってヤボを見つめる宥と映理のそばに、熊面童子が近寄って言った。
「もうお気づきとは思いますが、この森は普通じゃありません。いるだけで眠たくなってしまうんですからねえ」
「どういう仕組みなんですか?」
 映理が熊面童子に質問した。宥も興味を抱き、ヤボから目を離して二人の会話に意識を割いた。
「昔のご先祖様が妙な木やら草やら植えたせいだと聞いてますよ。具体的にどれがどうってのは分かりませんが」
「あなたが眠くならないのはなぜです?」
「生まれつき平気なんです。身内連中もそうですから、遺伝か何かのおかげで耐性があるんですかねえ」
 熊面童子は言葉を切って、一瞬の間沈黙した。
「……裏を返すと、身内以外はあっという間に眠ってしまうはずなんです。ところがお二方は、全く平気ってわけじゃないにしろ、ここに来るまで耐え切った。一体どんな手品を使ったんです?」
 熊面童子が急くように言った。
 映理はシャツのポケットに手を入れ、チャックのついた小さい透明の袋を取り出した。袋の中には小さな楕円形の粒がいくつか入っていた。それを見て宥は苦笑し、熊面童子はため息を吐いた。
「手品の『種』って洒落ですか? からかうのは止してくださいよ」
「洒落ではありません。これはシマタシクという植物の種子です」
 映理は袋の中身を指して言った。宥は顎を落として「まさか」と呟いた。瑞々しく甘い黄緑色の液体が宥の頭をよぎった。
「シマタシクの葉や根には、強い覚醒作用のある成分が含まれています。眠気を抑えるという点に限って言えば、カフェインを優に超えるようです。その葉で作った飲み物を、ここに来る前に飲んできました」
「ははあ、なるほど」
 熊面童子が手を叩いて感心したように言った。
「そんな眠気覚ましがあったんですか。いやはや、こいつは参ったなあ」
「じゃあ、この状況を予期して準備してたってこと?」
 宥が驚いて言うと、映理は「そうだと格好がついたんですが」と苦笑した。
「『この森に入った人が強烈な眠気に襲われた』という噂を聞いていたとはいえ、私はほとんど信じていませんでしたから、特別な対策を講じるつもりはなかったんです。一応事前にコーヒーでも飲んでおくか、という程度の考えでした」
「それなら、どうして……」
「つい一昨日、隣県の知人に会う機会がありました。その際、雑談がてら『眠くなる森』について意見を聞いてみたんです。知人も半信半疑というか二信八疑くらいの様子でしたが、一応あり得そうな可能性として、香りに若干ながら睡眠作用がある植物を挙げてくれました」
 バタイヤのことだ、と宥は理解した。
「知人は薬用植物に詳しく、話のついでに眠気を覚ます方の植物も教えてくれました。隣県のごく限られた地域でしか知られていない種類だそうです。私も知りませんでしたが、知人は実物……というより実物の一部を分けてくれました。乾燥させた何枚かの葉と、いくつかの種子」
 映理は小袋を軽く振った後、ポケットに入れ直した。
「そういう経緯で貰った葉を、コーヒー豆の代わりに摂取したわけですが、それが結果的に功を奏しました。幸運と知人のおかげ、です、ね」
 映理の語尾が奇妙なスタッカートを成した。そして体の角度が傾き始めた。
 宥は映理の体に腕を伸ばしたが、支える力も持ち上げる力も湧いてこなかった。ヤボと対面した興奮で束の間麻痺していた眠気と倦怠が戻ってきたようだった。宥は残った膂力を振り絞って、映理をゆっくりと地面に横たえた。ほっと息を吐いた瞬間、足元が溶けるような感覚が走った。
 気づくと宥は空を見ていた。複雑な形の雲が澄んだ青色の中に浮かんでいる。宥にはその雲が遮光器土偶の形に見えたが、あるいはそれは眠りかけの脳による錯視かもしれなかった。
 宥はバッグに手を伸ばそうとした。ヤボ畑の写真をまだ撮っていない。腕を持ち上げようと試みたが、重力に従って地面に張り付いたまま動かなかった。
「おやまあ、お二方とも限界ってわけですか。シマタシクとやらも万能ではないんですねえ。やれやれ、まだヤボの売買も済んでいないのに」
 宥の耳に熊面童子の声が遠く響いた。
「……冬のように眠るといい。再び目覚めるまでに、私が森の外へ連れて行こう」
 宥は目だけを声の方に向けた。霞む視界の向こうに、体中が夜のように黒く、胸元だけが月のように白い、ひどく大きな生物を見た気がした。それが何であるか認識しない内に、宥の意識は暗い眠りの海に沈んでいった。

 宥はヤボの天ぷらに齧りついた。さくりとした衣をくぐって、ほのかな苦味とつゆの甘辛い風味が、口の中に染み入っていく。
「美味しい」
「そうですか。お口に合って良かった」
 映理はそう言って、目の前の皿に箸を伸ばした。
 宥と映理は土上楼閣のテラスにある椅子に、向かい合って座っていた。テーブルにはティーポットと二つのティーカップ、二枚の皿が置かれている。皿の上にはそれぞれ、食べやすい大きさに切り分けられ、黄金の衣を着せられたヤボが並べられていた。
 周囲は夜の気配に包まれ、テラスの天井には電灯の明かりが煌めいている。昼間以上に音は少なく、遠くから微かに聞こえるカラスの声を聞きながら、宥は映理が調理した天ぷらを味わっていた。
 月の輪で出されるものと遜色なく快い食感だった。つゆはもちろん店とは違うが、こちらもかなりの美味だと宥の舌は告げている。
 目を覚ました時、宥と映理は森の入口付近に置かれた熊の石像の前に寝転がっていた。赤から黒へと移り変わる途中の空を見て、宥は自分が何時間も眠りこけていたことを理解した。
 二人のそばにはオクラに似た実が放射状にいくつも伸びたものが置かれ、その下に正方形の紙が敷かれていた。
『お二方のしぶとさに敬意と呆れを込めて、ヤボを一つおまけしておきます。これ以上欲しいのなら、今度はきちんと代金を払ってくださいね』
 紙には筆文字でそう書かれ、左下には浮世絵のような筆致の熊が描いてあった。どうやらそれは、熊面童子が残した書き置きだった。
 宥と映理は疲労感の残る体を引きずりながら、土上楼閣までヤボを持ち帰った。映理の手によってそのヤボは夕食として仕立てられ、今まさに宥の味覚を大いに歓喜させていた。
 天ぷらを一つ食べ終え、宥はティーカップの中身を一口含んだ。レモンに似た清々しい香りを伴って、ほのかな旨味と渋味が口内に流れていく。
 心地良い後味を楽しみながら宥がカップを置くと、「今日はありがとう」と映理が言った。
「あなたがいて助かりました。一人ではあの眠気に耐えるのは難しかったでしょうから」
 映理は柔らかく微笑んで言った。
「あなたのおかげで、不動明王のご加護も受けられましたしね」
 映理の微笑は明確な笑みへと変わっていった。宥は無言で映理の皿から一つ天ぷらを箸で掴み取り、口に放り込んで素早く咀嚼した。映理は更に笑みを深め、く、く、と短い吐息を漏らした。
「いずれもう一度販売所に行きたいですね。今日はあまり詳細に見られませんでしたから」
 何度か息を吐いた後、映理が言った。
「人工栽培は難しいそうですが、一応知人に貰った種からシマタシクを栽培してみるつもりです。上手く育てば、再び眠気に対抗する手段になってくれるでしょう」
「もしそうなったら、また一緒に行ってもいい?」
「ええ。眠れないほどたっぷりとシマタシクを用意しておきますよ」
 映理はそう言って、ティーカップを口元へ持って行った。
 ゆったりとカップを傾ける映理の仕草を見ながら、「また」があればいいな、と宥は考えていた。
 映理との交流は宥にとって愉快な驚きをもたらすようだった。かつてキャンプで話した時から漠然とそれを感じてはいたが、今日の体験を通じて、その実感はより増していた。ヤボの追加調査であれ、別の用事であれ、あるいは単なる雑談であれ、また映理と行動を共にしたいという感覚が、宥の心中にじんわりと浮かび上がっていた。
 宥はその感覚を映理に伝えようとしたが、断られたりからかわれたりしたら癪だという思考が行動を阻害し、結果としてもごもごと意味もなく口を動かすばかりだった。
 宥が躊躇って何も言わずにいると、「ところで」と映理が言った。
「その内シマタシクの自生地を見に隣県へ行こうと思っているんですが、よければご一緒しませんか?」
 宥はもごもごを止め、映理の顔を見た。
「それは……興味あるけど」
「では決まりですね。後々細かい日時の調整をしましょう」
 映理はそう言って頷き、皿から口へ天ぷらを運んだ。宥は気が抜けたように苦笑いをした。どうやら余計な気を回す必要はなかったようだった。
 宥は皿から天ぷらを持ち上げた。衣越しに見える姿は緑色で細長く、オクラに似ている。
 映理は、宥と行動を共にすることに、何らかの価値を見いだしているだろうか。箸に挟まれた天ぷらを見つめながら、宥はそんな疑問を抱いていた。
 別に価値などないのだろうか。あるとすれば、それは物質的、実利的なものだろうか。あるいは、もしかすると、宥が映理から得ている感覚に近いものだろうか。
 映理に答えを聞こうと宥が口を開いた時、頭の中で地面から響くような低い声がした。
「それを聞くのは野暮ってものです」
 宥はふっと小さく笑い、何も言わず目の前の天ぷらを口に入れた。噛むと柔らかい歯触りがあり、爽やかな旨味と粘り気が口内に広がっていった。
 美味ではあった。しかし味や食感は、ヤボのそれではなかった。
「これ、オクラだ!」
 宥は目を見開いて叫ぶように言った。く、く、と映理が笑いの吐息を発した。
「おめでとう、当たりです」
 映理は楽しげに笑みを浮かべながら言った。宥は「まったく、もう」と非難の声を上げたが、心身に湧く脱力感と可笑しさを抑えきれそうにはなかった。
 静まり返った月夜の庭に、二人分の笑い声が響いた。その声を聞いてか聞かずか、どこかでカラスがクワアと愉快げに鳴いていた。

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