哲学は何の役に立つのか

 「哲学は何の役に立つんですか?」という質問がヤフー知恵袋なんかには多い。しかし、こういう質問に明確な答えが出た事は一度もない。
 
 人は「音楽は何の役に立つんですか?」とは質問しない。「音楽はそれ自体が価値だ」と誰でも知っているからだ。
 
 しかし、現代のような病んだ時代においては、音楽すらも何かの役に立つ、と考えないと気が済まない人がいる。音楽は脳にいい、とか。
 
 それでは問うが、その、世界の中心であるあなた方、世界のあれこれに対して「一体これは何の役に立つんですか?」と一々質問して回っているあなた方は一体、何の役に立っているのだろうか? それとも、世界のあれこれを自己に従えさせる理由があるほどに高貴な存在というのだろうか?
 
 人々はその問いに対して当然な顔をして「その通り」と言うに違いない。自分達の功利や好悪こそが世界を裁く判断基準となっているのだから、もはやそれは当然だという事になる。
 
 彼らは世界のあれこれを自己に従えようとする。「哲学」がその下僕になればラッキーぐらいに考えている。
 
 ちなみに言えば、科学は、この大衆社会では良い席を与えられているが、それは科学が見出す真理の美しさに価値が認められているのではなく、我々の「生活」に役に立つから認められているに過ぎない。だから、本当の科学者はそのような人々の科学歓迎のムードを嫌悪するだろう。
 
 ※
 今、私はある音楽を聴いている。私はその曲が好きだ。それでは、私は自分の為に、その曲を聴いているのだろうか?
 
 ウィトゲンシュタインは、歯の痛みとはどういうものかを考察している。「自分の歯の痛みを知る」というのはありえないとウィトゲンシュタインは言う。そうではなく、「歯の痛みを感じているのが自分」であり、「歯の痛みを知る」という場合、「知る」という言葉の用法が不適当な使われ方をしている、と言っている。「自分の歯の痛みを知る」事はありえない。なぜなら、「知る」以前に彼の歯は既に「痛んで」いるからだ。
 
 ウィトゲンシュタインは些細な言葉の間違いを指摘しているわけではない。
 
 私は今ある曲を聴きながら、この原稿を書いているが、それは原稿を進める「為」なのだろうか? 私は「気持ちよく」なる為に曲を聴いているのだろうか? …そうではなく、今、その曲を聴いている存在が「私」なのだ。
 
 つまり、私がその曲を聴いているのだ。
 
 ※
 通常、人は「音楽は何の為にあるのか?」とは問わない。なぜなら、音楽はそれ自体が価値だとわかっているからだ。
 
 哲学も本質的には同じ事だ。哲学はそれ自体に価値を持つ。
 
 過去の偉大な哲学者は、哲学それ自体の持つ価値に引き寄せられ、そこに参与していく存在となった。彼らは「何の為に?」とは考えなかった。「「何の為に?」とはいかなる事だろうか?」とは考えだろうが。
 
 人々は世界の中にいて、自分が何であるかを考えてみない。自己を反省する前に、自己の欲求が先立つ。そこで、欲望に反省を従えさせようとする。だから人は言う。「哲学は何の役に立つんですか?」。
 
 哲学はその問いに答えない。哲学はその問いを「分解」する。解明する。哲学は、世界を理解するのを願望とする。それに何故?と問うても、答えは返ってこない。
 
 仮に世界の全ての謎が解明されたところで、それを見る目がない人には何の意味も持たない文字の羅列にしか見えないだろう。素晴らしい数学的証明が、無学な我々には、インクの染みにしか見えないように。
 
 哲学は何の役にも立たない。ただ、哲学は「哲学は何の役に立つんですか?」と問うような人々、そのような問いがなんであるかを解明し尽くす。そうして哲学は更にその先へと進んでいく。
 
 古代ギリシャは真善美という理想を打ち出したが、理想がなく、全て功利主義的にしか考えられない人類であるならば、ただ生存していたとして何の意味があるのだろう? 「今の時代を生き抜くには何が必要ですか?」という質問も多い。生きるだけなら、ゴキブリだって生きている。生き抜くだけなら、人を殺しても刑務所で、死ぬまで長生きできるだろう。死刑にさえならなければ。
 
 哲学はそれ自体を価値として生きている。ただそれだけだ。そこに意味がないと思う人に、哲学は自らを現したりはしない。哲学は哲学的資質を持っている人だけに自らの姿を開示する。そうしてその人は次第に哲学に誘われていく。繰り返し言うが、そこには意味など全然ない。ただ、その全体が意味として、歴史的存在として、塔のように人類史の中に立っているというだけだ。
 
 

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