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ベルンハルトの本

 僕は書店で奇妙な本を見た。トーマス・ベルンハルトという作家の小説だ。
 
 元々、僕はトーマス・ベルンハルトという作家の名前だけは知っていた。特異な作家だ。彼は出生地であるオーストリアという場所を徹底的に呪っていたらしい。
 
 それは「推敲」というタイトルだった。タイトルとその表紙にも、どこか普通でない、禍々しい雰囲気があった。少なくとも僕はそんな風に感じた。
 
 その本は、書店の前面、つまり新刊本が並んだ場所にあった。新刊本というのは、新しく刊行された本だから、書店としても「売り」の場所だ。賑やかな場所だ。書籍というものが売れなくなって久しいが、それでも新刊本は一応の華やかさを持っている。
 
 「推敲」は、書かれたのは1970年代で随分昔の本だ。それが、新刊本として出ているのは奇妙でもある。これは、最近になってやっと翻訳されたという事で、それで僕らの国ーー日本ーーでは、新刊本として陳列されていた。
 
 僕はトーマス・ベルンハルトが昔の作家だというのは知っていたので、それが最近になって新刊本として出るという状況をやや不思議に感じた。…もっとも、そんな事は不思議でもなんでもないのかもしれない。「文学」とか「芸術」とかいうものは、作者の死後に認められる事は数多いからだ。
 
 新刊本のコーナーに、他に並んでいる本は、売れそうなものばかりだった。芥川賞を取った小説、直木賞を取った小説、テレビで取り上げられた小説や、人気の経営者が書いた自己啓発本。あるいは、世界の経済や科学が一気にわかる(とされている)本、世界で人気を博する学者が書いた人類史、などなど。世の中で流行っているそうした本が新刊本コーナーを埋め尽くしていた。
 
 僕が驚いたのは、その中にポツンと、「推敲」という小説が置かれていたからだ。この本の中に仕掛けられた爆薬は、きっとその周囲の新刊本、いやそれどころか様々な出版社、消費者、あるいはこの騒がしい資本主義的な国家群そのものを爆破する力に満ちているだろう。そんな悪意が込められた本が当たり前のように書店の前面に置かれているという事実に僕は驚いたのだった。
 
 ※
 しかし僕の驚きを読者に共有してもらう為には多少の内容の説明が必要だろう。僕はそれらを、書店での拾い読みという単純な行為から得たのだった。
 
 例えばこんな事が書いてある。
 
 「くだらない体裁にばかりこだわり、これまでもこれからも漫然とアルテンザムで生きていくやつら。買い物に時間を使うのはもったいない、と私が学問に没頭して絶対に必要な物を買うことですらできないでいる、たとえば新しいズボンを買うことすらできないでいる間も、兄たちは流行の服を山のように買い漁っているんだ、とロイトハマー。毎分毎秒、新しい車を買うんだ。することといえばことごとく無意味。」
 (「推敲」トーマス・ベルンハルト 飯島雄太郎訳)
 
 「毎分毎秒、新しいクルマを買うんだ」というくだりが僕を笑わせてくれた。…だけど何より楽しかったのは次の文だ。
 
 「人々の排泄物をどうにかしなければならないといつも右往左往させられているのだ、とロイトハマー。排泄物の山をかき分けて行かなければならない、とロイトハマー。ある排泄物の山を抜けたかと思うと次なる排泄物の山を抜けなければならない、それもすばやく、徹底的に。この世には排泄物の山しか存在しない、それをかき分けて行かなければならない。人々の排泄物の山を通っていかないことには目標に到達することもできない。人々の排泄物の山とはつまりさもしい頭の排泄物の山だ」
 
 僕は連続する「排泄物」という言葉のリズムについ笑ってしまった。僕が立ち読みして、ふと笑うと、隣りにいたスーツ姿の男が僕を、変なものでも見るように見た。でも、僕は気にしなかった。というより、奇異な物を見るように見られるのがむしろ心地よかった。
 
 そうだ、この世にはもはや排泄物しか存在しない。その通りだ、と僕は思った。新刊本……「推敲」の両隣、その真上に並んでいる本はすべて新手の排泄物に過ぎない。精神の排泄物。現代の、腐った大衆の為の排泄物という名の餌。その群れ。群畜。
 
 排泄物が世界を埋め尽くしているし、きっと僕だって、いや「推敲」という本だって新手の排泄物の一つに過ぎないのかもしれない。でもそんな事はどうでもいい。僕は、爽快な気持ちだった。嘘まみれ、ごまかし、馬鹿騒ぎ、そんなものしかない新刊コーナーで一冊だけ奇妙な真実を語っている本が存在した事に。
 
 僕は…家へ帰ってから、「ベルンハルト 推敲」とキーワード検索をしてみた。広いインターネットの空間。とはいえ、日本だけだけど。日本国内。…驚いた事に、というか当然のように、「推敲」に対する書評は一つも見つからなかった。一つも。プロのものも、素人のものも。アマゾンのレビュー欄はゼロ。誰も評価していない。
 
 要するに完全な沈黙が守られているわけだ。この書物に対しては。僕はその事にも微笑した。排泄物。完全なる沈黙。わめき続けている書物。一体、この書物は五十年近く前のオーストリアから発せられたものだ。それが今になってこの日本、この、末法の世も極まり、釈迦も反吐を出さざるを得ない日本とかいう国にこだましている。そして沈黙。誰も何も言わない。
 
 僕は嬉しかった。誰も彼もが沈黙しているという事実に。この画期的に馬鹿げた、気の狂った書物に、この広い日本、この一億人以上いる国の誰一人として反応していないという事実が実に心地よかった。それ以外の全て、それ以外の売られているもの、存在しているもの、街を歩いている人々、彼らがバッグに入れている最新式のスマートフォン、その中の情報、彼らの夢、希望、願望、それらの全てが排泄物であり、僕らは自らを排泄物に化す為に毎日努力している。毎日毎日。より素晴らしい排泄物になるために。企業は毎日僕たちに精神のカスを与えてくれるし、そのカスを得る為に僕らは毎日自分をすり減らしている。
 
 そして一冊の本がある。その全てを、告発する本。怒鳴り散らす本。自分の右や左、上にある排泄物を罵る、新たな、新手の排泄物。つまり「推敲」という一冊の小説。
 
 一冊の小説がこんなにも巨大な爆薬であり、その爆発に誰も気づいていないという事が僕を喜ばせた。そうだ、僕は、嬉しかった。書店にそんな本があった事に。
 
 その頃の僕は疲れていた。ああ、とても疲れていた。疲れていた理由? …そんな事は聞かないでくれ。世界は僕たちを疲労させる理由を無限に蔵している。その一つを説明するなんて馬鹿馬鹿しい事だ。無数に飛んでくる銃弾のどれに当たったかなんて些細な問題だ。とにかく、この世界は銃弾が飛び交い続けている。いつかはどれかに当たって、死ぬ。
 
 僕は、嬉しかったのだ。そんな奇妙な本があった事に。書店に一冊だけ(本当は数冊だが)置いてあった事に。
 
 僕は書店を出た。ああ、その時、外には夕日が見えた。
 
 まるでこの夜の終わりのように、赤い、というより赤黒い、血のほとばしるような夕日だった。もうとっくに世界は終わってしまっているのに、人間と名付けられたガラクタだけが、衣装を着てはびこっているような、まるでもう、電池が切れて動かないはずなのに、何故か今まで動いてきた動きをやめられず動き続けているロボット達がうごめいている世界のような…そんな世界が目の前に広がっていた。死者の街。
 
 僕は微笑して街路を歩いていった。爽やかな気持ちだった。僕は実に長い間、不快な気持ちを引きずっていた、と思った。無理して、自分の視界に入るものを良いものだと僕は思おうとしていた。それらが僕の視界にあるというただ一つの理由で、僕はそれらを正当化しようとしていた。それら全てを。存在する全てを。みんながそうしてきたように。現に今もやっているように。
 
 だけどそんな必要はもうない。僕はそれを「推敲」に教えてもらった。腐った物はどうあがいても、どうあがこうとも、どれだけ擁護しようが、どれだけ経済的価値を生もうが、やっぱり腐っているのだ。それだけだ。
 
 僕はさっぱりした気持ちで書店を出て、道を歩いていった。…とはいえ、僕はここで一つの注釈をつけなくてはならない。僕はその時、決して「推敲」という小説を購入しなかった。僕は「推敲」を買わなかった。それを買って、後生大切に読んでいく事は、僕が全ての事に対する解答を先回りして知ってしまう事を意味するだろうと予感されて、そんな事は僕は望んでいなかったから、本を買わなかった。僕は、それは怖かった。
 
 そういうわけで、僕は「推敲」を買っていない。という事は、やはり僕もあの本が告発する排泄物、その中の最下等の物に過ぎないだろうか。まあ、そうだろう。とはいえ、僕はあの本を書店で見て、あの本が告発する世界のドス黒さ、その黒さをはっきり見て、これまで自分を騙していたと、自分で反省した。僕はそういう感想をあの本を得た。
 
 その後の事は、僕は知らない。全然。その後、時間的な意味において、僕は文字通り、飯を食ったり、排泄したり、寝たりした。まるで普通の人のように。そしてそれらの事は人に語る意義というものを全く持たない。本当にそれらは、一切の意義・価値を持たない。天才が書いた一冊の小説とは違って、全く意義を持たない。それらは存在しなかったも同然だ。
 
 排泄物が自らについて語る事は、排泄物そのものよりももっと吐き気のする事だろう。だから僕はそれについて語らない。僕が語るのはただ「推敲」という小説について、そしてその小説について僕がどう思い、どう感じたのか、それだけだ。それだけがこの腐りきった世界において、ほんの少し、ほんのちょっぴりばかり語る価値のある事だ。僕にはどうもそんな風に思われるのだ…というより、どうしても、そんな風にしか思われないのだ。

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