「教養」のある文章を書く為に

 例えば、ある評論家がある作家をこき下ろす。それだけ読むと、その作家はもう用済み、コテンパンに打ちのめされて、もう読まなくてもいい存在であるような気がしてくる。
 
 しかし実際に、その作家の書いたものを読むと、彼には彼なりの言い分があって、彼には彼の世界があるし、彼の言っている事も正しいように思えてくる。こうして、読者は、自分が明白な意見を持ち得ない事に不安を感じてくる。
 
 この「不安」というのが教養を持つ為には必要なものだろう。
 
 哲学で言えば、「〇〇主義」を別の「△△主義」が覆した、というような事が言われたりする。これをそのまま受け取ると、古いものの上に新しいものが上書きされたかのような気がする。実際、そんな理解(非ー理解)を取る人も多い。
 
 しかし、実際、古い主義の本を読むと、それはそれで、そう簡単に否定できない事が書いてある。新しい主義のものと読み比べても、確かに新展開はあっても、どちらがいいとは簡単に言えない。
 
 こうした読み方をしていくと、読者は「不安」になるが、そうした複眼的・多面的なものの見方を受け入れる事が教養の造成に役立つ。というより、そうして作られた多面的なものの見方が教養だと言った方がいいだろう。
 
 多面的な教養を得た人が今、ものを書く、と考えてみよう。実際には、多面的なものをそのまま書くのは不可能である。それをやろうとすると、バラバラの言説が並ぶだけとなって、はっきりとした意味にはならない。何が言いたいのかわからない文章になってしまう。
 
 そこで、書き手はある一視点を選んで自分の文章を書く。これは小説でも、評論でも同じだ。この一視点を「テーマ」と呼んでもいい。
 
 一つのテーマから書かれた文章は、他の多数の視点を切り落として書かれている。「捨象」というやつだ。しかし、切り落とされた視点は死んだわけではない。それは文章の背後に、潜んでいる。切り落とされた多数の視点は、一つのテーマで書かれた文章の背後に、潜在した意味となる。
 
 このような文章というのは、いわば、味わい深い、内容の深いものとなる。小林秀雄の文章がそのいい例だ。小林秀雄はいつも、小林秀雄的な文章を書く。全てに通底するあるテーマ(「小林秀雄自身の自意識」)がある。だが、そのテーマだけで意味が尽きるわけではない。その層の下にいくつも隠れた層があり、それ故に小林の文章は含蓄深いものとなる。
 
 一方でベストセラー本とか、よく売れた哲学入門書などは、非常にわかりやすいように書かれている。文章は多層的ではなく、表層的な、紙のような薄いもので成されている。手っ取り早く賢くなろうとする読者はこの単層の中に世界が詰まっていると考える。
 
 読者を騙す側の作者は、その単層に世界の全てが詰まっているかのような印象を与えようとする。しかし、実際にはそれはただ表層を撫で擦っているだけであり、現実の奥深さを言語で表現するという状態からは程遠い。
 
 例えば、世界のあらゆるものをメートルとか、センチで測る事は可能だ。この世のあらゆるものを、メジャーで測っている人間を考えてみよう。彼はどんなものも、何メートルとか、何センチとかいう単位に分解する。
 
 次第に、彼には世界には平板なものに見えてくる。「この世界は単調だ。全てメートルとセンチで言い表せてしまう。俺にはつまらない」 彼はこう言うかもしれない。しかし、彼が持っている目盛りが単調なものに過ぎない、という事にはなかなか気づかない。こういう人物は自分の道具を捨てきれない。
 
 どんな愚かな者でも、世界を馬鹿にして生きる事はできる。どんな愚かな時代も、他の全ての時代よりも賢いのだと自惚れる事はできる。というのは、自分達が持っている測定道具でしか、自分以外のものは測定できないからだ。
 
 猿にとってはマラルメの詩は、何の意味もないインクの染みでしかない。猿にとってはバナナの方が大切だ。猿は言う。
 
 「人間というのは、『詩』なんてわけのわからないものを有難がって、馬鹿なやつだ。俺達は人間よりも賢いから、もっと意味のあるバナナの方を取る」
 
 この時、猿が間違っているわけではない。猿は猿の世界を生きているというだけの話だ。そして猿には人間の世界はわからないが、人間には猿の世界が理解できる。猿にはその事もやはりわからない。猿には自分がわからないという事もわからない。
 
 ※
 話がずれたが「教養のある文章」とはそういうものだと思う。
 
 だから、世界を単層で理解しようとする人が、「教養のある文章」を馬鹿にするのも、間違っているとは言えない。全ては「言葉」であり、「字面追っていければわかるだろ」というのは、彼らの世界観を示しており、彼らの世界そのものがそのまま否定されるわけではない。
 
 ただ教養のある人間、教養のある言葉は多面的にできているので、様々な現実のニュアンスであるとか、状況の変化に耐えられる。それ故に長く残りやすいという事だ。
 
 現在はインターネットなどのテクノロジーで、リアルタイムに他人と繋がれるようになった。それは、人々の刹那的な感情を、横に大きく広げてくれるものであるが、その感情そのものの絶対化は、人々を単層の存在に変えていくのに役立っている。
 
 人々は表層的なものを次々に取替える。自分の感情を、趣味を、仕事を、人間関係を、あるいは自分自身をも、刹那的に取り替えていく。こうして細切れになった人生が何であるのかは、誰も明確には答えてくれない。
 
 こうした刹那的なものはトータルとしての意味を失っている。トータルとしての意味を失ったのは、単層的な意味を追いかけ過ぎたせいなのだ。ベストセラーは次々と更新され、背後に消えて行き、誰も顧みない。
 
 今はこういう時代だ。こういう時代で、「教養」というものを深く考えていく為には、社会に流れる迅速な時間感覚に抵抗する必要がある。世界と闘わなければ、教養は身につかない。そしてそれは、世界が我々に授けようとする「ファスト教養」とか「これ一冊で身につく教養」などというものとは違うもののはずだ。
 
 

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