「批判は良くない、肯定は良い」

 「批判は良くない、肯定は良い」。今はこういう風潮が受け入れられている。
 
 こういう事を本気で言っている人を見ると(本を読んでこなかったんだな)とか(教養がないんだな)としか思わない。過去の偉大なものの多くが、批判を根っこに含んでいるからだ。
 
 ソクラテスの哲学はソフィストを批判したものだったし、キリストもまた、硬直した旧宗教を痛烈に批判していた。キリストの批判などは、今の世の中でも十分に通用するもので、形骸化し、本質を忘れ、ただ形にしがみついて自分の地位を守っている誰彼は、キリストの批判から逃れられないだろう。
 
 宗教改革も批判を基礎にしているし、フランス革命も批判的精神がなければ存在しなかった。ニーチェの哲学もまた批判だし、ウィトゲンシュタインの哲学も過去の哲学の批判を根としている。パスカルは「真に哲学するとは哲学をバカにする事」と言っている。
 
 批判というのは、創造の半面であり、いわゆる「建設的破壊」というやつで、本気で何かをしようとする人には必要なものだ。
 
 批判は、創造の半面という性格だけで重要なのではなく、もっと根源的なものとして考える事もできる。それは「真理は否という形でしか言えない」という定理に関わる事柄であって、人間という限定的な存在においては、真理とか神とかいうものを直視できない。
 
 だから、その反対のもの、真理ではないものや、神ではないもの、そういうもの批判するという形で、本当に肯定したいものを肯定する。そういう方法がある。というより、真に偉大なものを肯定しようとすると、どうしてもそういう形式になってしまう。
 
 詳細を論証するのはこの文章では出来ないが、ドストエフスキーの文学などは、「真理は否という形でしか言えない」の最高度の形式化となっている。ドストエフスキーが病んだ人々ばかり描いていたのは、彼が、より高いものを肯定せんがためだった、と言えば多少は伝わるだろうか。
 
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 もちろん、闇雲に批判していても仕方ないわけで、批判するには、その裏側に何らかのものが目指されていなければならない。
 
 それにしても、ここまで「批判は良くない、肯定は良い」と言う人が多いのは、なんなのだろう?と私は考えてしまう。一言で言えば、人々は保守的になっているのだが、この低落化する日本社会で、まだ守るべきもの、「保守」すべきものがあると思っている人々を見ると、一体、何を守ろうとしているのか、不思議に感じる。
 
 「批判は良くない、肯定は良い」という言説はどのみち、今の社会の主流であるものを肯定していくという方向に動いていく。例えば、私は『神聖かまってちゃん』というバンドを「肯定」しているが、『神聖かまってちゃん』はマイナーなので、「神聖かまってちゃん』を肯定する事は、メジャーなものに対する批判を暗に含むという事になるだろう。
 
 「批判は良くない、肯定は良い」という論理で行けば、大多数の人間が肯定しているものを肯定するという流れにしかならない。大多数の人間が肯定しているものを自分も肯定して何が悪い!という形でしか、肯定の論理は語られない。少数の人間が好むもの、自分だけがいいものを肯定するという行為は、大多数の人間が肯定しているものに対するアンチテーゼを含むわけだから、そこには批判が潜在している。
 
 人々がこうした形で守ろうとしているのは、おそらくは八十年代の延長なのだろう。大衆の経済的興隆であるとか、サブカルチャーの繁栄とか、そういうものを相変わらず続けたいという事なのだろう。彼らが肯定したいのはそれだろう。彼らが間違っても「今の世の中にあって、私はカントを肯定したい!」なんて言うはずがない。彼らが肯定したいのはゲームとか、アニメとか、また、仕事・恋愛・趣味といった資本主義的価値観内の行為であるはずだ。
 
 結局の所「肯定は素晴らしい。批判は醜い」と言いながら、人々は自分達の世界を押し通そうとしているだけだ。私が不思議に思うのは、そうした人々の足元がどんどん崩落していっているのに、未だに、考えを変えないという事だ。
 
 肯定するのは結構な事だが、それは、自分達の肯定しているもの以外は価値が低い、という批判を暗に含んでいる。人間は差異化で物を考えるしかないのでどうしたってそういう方向に行く。また、批判は暗に、批判されるべきでない何かがある事を予示している。肯定すべきものが想定されているから、その裏面としての批判が展開されているのだ。
 
 ただ、「肯定、肯定」と言っているこの社会を、歴史というより大きな存在が「批判」するだろうと私は予測している。白痴化した大衆社会を批判するなにものかは、社会の外側からやってくる。人は意識されたものが全てではないのと同様、この社会においても、メディアで主流になっている言説だけが社会の全てではない。
 
 この社会の外部がやがて、我々に足りない痛烈な「批判」を行ってくれるだろう。その時に、「『外』に批判されるよりも先に自己批判をしておくべきだった!」と反省してももう遅い。その時には、自己を批判する契機は失われているだろう。
 
 

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