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庵野秀明「シン・仮面ライダー」のドキュメンタリー感想 (「オタク」の最良の部分とその限界)

 庵野秀明の「シン・仮面ライダー」のドキュメンタリーを見ました。制作過程を映したものです。なかなか面白かったです。

 元々、私自身は庵野秀明という人には一定の評価しかしていません。ただ、今回のドキュメンタリーを見て、庵野秀明の真面目な姿勢に好感を持ったのも事実です。

 庵野秀明に好感を持ったのは(この時代にこんな真面目に作品作りしているんだ)という事です。逆に言えば、日本の映画に対する評価が下がり続けて、ハードルが低くなっている為に、その中で真面目に作品を作っている庵野秀明を見直した、という事になると思います。

 もっとも、庵野秀明に対する「一定の評価」は私の中では変わっていません。庵野秀明はあくまでも「オタク」であり、庵野秀明はオタクの持つ良い部分と、その限界を同時にさらけ出した存在だと思っています。

 それでは、オタクのいい部分と悪い部分はどういうところでしょうか。先にいい所から語ります。私は、一般の人と話していても(これだったらオタクの方がマシじゃないか)と思う事が結構あります。それは、オタクが少なくとも、好きなものを持っていて、熱意を持って語れるし、取り組めているという事です。

 普通の人と話していて虚しく感じるのは、彼らがどういう作品を見ても、大して感動していないという事です。彼らは口では「感動しました。泣きました」と言いますが、それは口だけで、ある作品が彼らの人生観に深い影響を及ぼすとか、観客の一人として興味を持って作者の思想や人格を深く掘り下げ、人生の指針とするというような事はまずありません。そういう点では、オタクの方が少なくとも、調べたり考えたり、掘り下げたりという事をやっていると思います。

 ただ、そこにはオタク的な限界があると思います。ガンダムで例えると、ガンダムオタクが、ガンダムのかっこよさや、どの機体が一番強いのかについて議論したとしても、機動戦士ガンダムという作品が本質的にどういう作品なのか、それを切り込んで批評する人はいない、という事です。

 ここにはオタク的な限界があると思います。これは、庵野秀明が影響を受けた岡本喜八との関係で見ればわかりやすいと思います。岡本喜八は、戦争体験があって、死ぬまで、戦争という現実の巨大な経験を作品の中で描き続けました。ここではフィクションは現実と直接向き合っているわけです。

 しかし岡本喜八に影響を受けた、より若い世代の庵野秀明はそうではありません。押井守が「庵野秀明は演出はできるが、テーマがない」と言っていましたが、同じような事を言っていると思います。庵野秀明にはテーマ性がなく、あるのは(昔の仮面ライダーかっこいいな、これをもう一度やりたい)というような感性的なものです。

 この感性は、当人にとっては自由であり、絶対的なものであっても、実際には戦後に構築された社会体制の内側で認可された感情に過ぎません。戦争、敗戦という現実の破れ目が、戦後の復興で塞がってしまい、フィクションは現実に直接向き合う必要がなくなった。その代わり、フィクションは、現実の体制の庇護下で、思想を失ったエンターテイメントを中心とするものになりました。

 その為に庵野秀明には思想がなく、その代わりとしての感性や、演出の有能さがある。しかし、ここに庵野秀明が、ヒットメイカーになった原因もあるのだと思います。

 以前書いた文章に「売れる為に個性は必要ない」というものがあります。売れる為に強い個性はいらない、というのがその論旨ですが、庵野秀明にも似たような事が起こったと思います。元々、マイナー志向だった庵野がどうしてヒットメイカーになったのでしょうか。そこには庵野秀明自身の思想の空白が一役買っていると私は思います。

 つまり、社会的現実と直接向き合う事なく、(どのガンダムが一番かっこいいか)とか(どのキャラクターに一番萌えるか)といった個人的な感情を満足させる作品を、庵野秀明というクリエイターが作っているという事です。そうした感性は庵野秀明にそもそも備わっていたのでしょう。

 エヴァンゲリオンを見ると、ステレオタイプな要素がばらまかれています。サービスシーンとしての女性キャラの「萌え」もばらまかれています。これらは、庵野秀明が高級なクリエイターだったら絶対にやらない事でしょう。しかし、庵野秀明は本当にそういうのが好みだから、そこはオタクの無分別というか、「萌えて何が悪いんだ」というオタク魂で押し切って描いています。

 ここのあたりは高級な視点からすれば、批判されるべきポイントですが、今の社会状況を考えると、むしろ賞賛した方がいいのかなと思ったりもします。

 かつては、オタクだけがあれこれと言っていたアニメの文化は今やすっかり一般に広まりました。日本だけではなく、世界にも広まりました。なぜ、これだけ広まったかと言うと、オタクは少なくとも、一般の人達よりも強い熱意を持って、自分の作品を語ったり、推奨したりする事ができたからだと思います。作品作りにおいても、そういう熱量があったから、一般に広まる事ができたのでしょう。

 私は、内心(くだらないなあ)と思っても、好きなもの、語れるものが一つもない人より、アニメでもゲームでも、熱心にその良さを語れる人間の方がまだいいと思っています。そういうところはオタクの強みではあると思いますし、それだからこそアニメ文化は、かつての蔑まれていた時期を打ち破って、これだけ広まったのでしょう。
 
 ※
 少し戻って、フィクションが現実と向き合うとはどういう事かについて補足しておきます。

 庵野秀明が影響を受けた岡本喜八は、戦争という現実を忘れませんでした。この事実を人は「岡本喜八は戦争を批判した」というようなイデオロギーで理解しようとします。しかし、大切なのは、その人の中で、一生涯かけて追求すべきテーマを現実の中に見つけた、という事だと思います。

 現実という重たいものと、フィクションという観念的なものが戦わなければならないのは何故でしょうか。それらを統合するのは作者自身の人生です。作者は何らかの形で、現実と戦うフィクションを作らなければならない、という必然性を自分の中に持つようになります。

 その必然性は、どのようにして作られるのでしょうか。岡本喜八の場合は、実際に自分が戦争に行ったという事です。そこであまりにも理不尽な経験、自分というもの、また仲間というものがいともたやすく殺されてしまう非人間的状況を実感し、そのような現実を受け入れる事に人として苦しみ抜いた。だからこそ、それを受け入れ、越えていこうとする事が映画製作のような行為に現れたのではないかと思います。

 今出した例は「戦争」というものですが、「戦争」の例に見られるように、作者がフィクションによって現実と戦わねばならないという時、それは大抵は、不幸な現実として現れます。当然の話ですが、幸福な現実とは戦う必要はないのです。

 岡本喜八より年下の庵野秀明は初期のオタク世代にあたるのでしょう。作品が、巨大で理不尽な現実と戦うよりは、社会的に承認された個人的感情を充足させる方向に向かうのは当然な事かも知れません。岡本喜八の時代とはすでに違ってきていました。

 そしてそれが、難しい事、面倒な事を考えたくないより若い世代にフィットしたとしても、それほど驚く事ではないのでしょう。限定品を手に入れる事に腐心したり、アイドルを応援したりする事に生きがいを感じて、面倒な社会的現実や、人は死ぬという根源的な問題を回避しようとする世代にとって、庵野秀明のようなオタク的な掘り下げは魅力的だったのだろうと思います。

 そういうわけで、庵野秀明という人はこれまで書いてきたように、オタク的な良い部分と、その限界を同時に持った人だと思います。私は、ドキュメンタリー自体はかなり楽しく見させもらいました。また、俳優の池松壮亮の暗い表情も印象的で、ああした暗い表情は決して悪いものではないと思いました。真面目に良いものを作ろうとするからこそ衝突もするし、苦しみもするし、悩みもするので、その裏側が見れて私は面白かったです。

 ネットの意見を見ると、「創作はあくまでも人生を彩るものなんだから、楽しくやればいいよ。入れ込み過ぎてはよくない。ほどほどでいいよ」といった穏当な意見が多数者の賞賛を集めています。そういう意見がこれだけまかり通るのは、彼らが自分達自身を絶対化し、その外側に自分を越える何も認めないからです。


 こうして自分(達)をすべての中心とした大衆は、その卑俗な感情や快感を絶対的なものとして、それ以外のすべてをそこに従属させるものとしていきます。こうして一つの社会は腐り、下方に落ち込んでいくのでしょう。

 そういう中にあって、真剣に良いものを作ろうとする、何らかの犠牲が生じる事も覚悟で良いものを作ろうとするのは今の世の中に反する行為だと思います。庵野秀明はそういう気概がある人だな、とはドキュメンタリーを見て感じました。ただ、その気概はあくまでも、オタク的な限界を持った事をも指摘しておくというのが、これから先の時代(そういうものがあるとして)を考えると、必要な事だと私は思いました。


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