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芸術と再現

 アリストテレスの「詩学」において、劇とは、「再現・模倣」(ミメーシス)であると語られていて、随分平凡な定義だな、と思っていたが、色々考えていくと、これは含蓄のある答えなのではないかと考えるようになった。

 当たり前の話だが、昔は写真はなかった。パソコンもなく、テレビもなかった。したがって、「再現する」という事は、現代よりも遥かに貴重な事柄だったというのは容易に想像できるだろう。

 人間というのは、ただ生きているわけではない。主観を通じて入ってくる情報を勝手に取捨選択する。自分なりの「物語」を勝手に作り上げる。だから、誰しもが自分の物語を持っていると言える。ここに劇の根源があると考えてもいい。そもそも、「自己」それ自体が一つのフィクションである。このあたりは哲学の方が看破していた。

 物語が再現である、という時、記録媒体が存在しない時代には、人の記憶に頼る所が多かったのだろう。ところが、記憶というのは不正確であるし、勝手に改変が行われている。

 例えば、気象の専門家にとって、様々な天候の変化というのは、その人に強くイメージされる現実だろう。昔の俳人や画家なども、自然に対する感受性が強烈だったというのが彼らの表現を見ればよくわかる。

 話が広がっていくが、このまま進めてみよう。…自分は先日、美術館に行き、江戸時代の絵を見てきて感嘆した。彼らはいかに自然をよく見つめていただろう。いかに、虫や草木や、なんでもない自然現象を愛情を込めて見ていた事か。現代の画家には自然に対する「愛」が足りぬと言えば笑われるかもしれない。しかし、我々は日曜日に美術館に行って、画家の技術に感心しはするが、その帰り道、道端に咲いている草花や天候の微妙な変化などにはまるで心を向けない。

 絵というものが自然から発するのではなく、人工的な技術から発する。文学で言えば、様々な人間の諸相に驚いた詩人が、この世界を言葉で書き留めたいと願う。そこに詩が、物語が、作品が生まれる。これと比べて、現代の我々は新人賞を通る事を念頭に文章を書き始める。あるいは大衆に対する「受け」を狙って書き始める。芸術というものの、そもそもの動機が変わってきている。

 芸術とは再現だという時、その再現とはただの「再生」ではない。我々はあまりに物事を機械的に捉えている、と言ってもいいかもしれない。そこには人間としての「加工」が加わっている。更に、芸術家としての認識は、対象に対する愛情や共感性と大きく関わっている。例えば、これを読んでいるあなたは、自分が恋をしている相手の、ほんの少しの態度の変化や体調の変化にも敏感に気づいた事があるだろう。その時、あなたの認識を増したのは対象に対する愛であろう。愛と認識とは、相互関係にある。これを科学に全面的に譲り渡し、芸術は凋落した。

 「文学の人間観」という文章の中で自分は、あるタレントが言った言葉を取り上げた。それは犯罪者を「不良品」と呼んだ発言で、言った方からすれば気の利いた発言のつもりだったのかもしれない。まあ、それはテレビ内部の発言なのでどうでもいいが、この発言は、現代の認識の傾向性を十分表していると自分は考えている。こういう認識は、人間を正常ーー異常に分割して、自分達の正当性を証明し、安堵しようとする。これはサブカルチャー作品でよく使われている善ーー悪の分割に対応している。

 サブカル作品を見る時、我々は善に感情移入し、悪が排除されていくのを快感を感じながら読み取っていく。その際、「悪」の内側に対する認識はできるだけ消去される。アニメ作品などで、機械や化物が人類を襲ってくるのは、我々の認識の傾向性を代表していると言えるだろう。

 本居宣長は「もののあはれ」という概念を提出したが、これなどは単純に見えて難しい理念だと感じている。様々な物事に対する感情・感覚・共感といったものが問題になっているのだが、その際、特に深い感情は「悲しみ」となっている。人間の奥底にある深い感情は悲しみである。これは当然、仏教から来る無常観などとも絡んでくる。

 「もののあはれ」というものが、様々な物事に対する共感であり、感覚の鋭敏さ、人間に対しても自然に対してもしみじみと共感していく姿勢だとすると、現代の我々は何に対して共感していくのか、疑問に思える。そもそも、人工物に囲まれ、硬直した人間に囲まれ、芸術はアートと名付けられガラスケースの中に放り込まれ、様々なものから疎外されているが、疎外されている事も意識されない為に閉塞感に陥っている現代人が、雄大な芸術を生むのは難しいのではないかという気がしてくる。

 海を見ても何も感じない。空を見ても何も感じない。ギリシャ人は、海の背後にも空の背後にも神々を見たのだろうが、それを迷妄と笑う現代人は、主観を世界に明け渡して平気である。現代人の言う客観とは、疎外され外形化し、他人のものになった主観ではないのかという気もしてくる。

 芸術とは平和を達する学の一つだ、と小林秀雄にならって言いたい気もする。芸術が平和と連結するのは、それが共感というものを促すからであり、異質であると思っていた他者の内部にも理解できるなにものかが発見できるからだろう。バッハの音楽は、神を頂点とした統一であり、ベートーヴェンの音楽は人類を頂点とした統一であり、近代のはじめにいた人と終わりにいた人との違いがあるが、たとえ彼らが実生活において孤独な人間だったとしても、彼らは音楽によって人々を和す存在になったと言っていいだろう。

 芸術は、様々な物事に対して浸透していき、その内部を客体化して、外形として表す。しかし、見る側にも当然、鑑賞力を要求する。他人の内面を理解するのも骨が折れる行為である。芸術を回避して、他人と自分を同じ幻想の元に一括する一番便利な技は、全体主義という事になるだろう。全体主義、あるいは狂信が支配した世界は他人の内面も、自然の中の生命力も想像する必要がない。他者の内面という恐怖の種は、こちらの内面と一括して平板化する事によって解消しようとする。異常者を放り出して、正常者だけに人間を一括しようとする努力。それは様々な硬直したイデオロギーを繁茂させる。

 芸術は再現だ、という点に帰ろう。再現という言葉は我々の間では、精密さを売りにする機械がある為に、それに対応して想像されてしまう。記録媒体に記録されたものが再生される。そこに再現があるような気がする。世界はいくらでも、データとして俎上に載せられる、と我々は考える。そこで、小説は拙劣な、情報量が少ないものとしてイメージされ、映像作品の方が価値があるとされたりする。

 最近、そういう事を思うようになったのだが(年を取ってきた為に)、記憶、イメージ、認識、というものは相互に繋がっている。簡単に言うと、良い作品を作る為には、作者がその作品を強烈にイメージしなければならない。いや、イメージするというより、イメージしてしまう、と言った方がいいだろうか。優れた芸術家がしばしば、自分の力ではなく、他力によって支配されていると感じてきたのは人もよく知る所だろう。その際、彼に強く想起されているのは、彼の内部深くに落ちていったイメージであり、それはインスピレーションと呼ばれたりする。

 自分は、優れた文学者が、現実世界では迫害されたり、牢獄に入ったり、追放されたり、孤独を感じてきたというのを繰り返し見てきた。フィレンツェを追放されたダンテなどがわかりやすいが、ダンテがもし追放されていなければ「神曲」はなかっただろう。彼は、追放された為に、自らの記憶とイメージの中に生きるしかなかった。それは脳内における再現かもしれぬが、現実における死、つまり生活者としての死が、芸術家としての再生を生んだと言っても良いだろう。想起し、再現し、構成するとはしばしば、現実において死地に堕ちた芸術家が蘇生する道なのだ。

 さて、ここまでも雑多な話をしてきたわけだが、ぼんやりまとめてみようと思う。

 まず、芸術とは様々な物事に対する認識であり、特に対象の内面に参入していく事業だという事だ。「一本の草木にも宇宙がある」のが日本画の哲学だとすれば、それが本気で信じられていなければ、表面的な技術だけ学んでも何かが欠けてしまうだろう。文学は人間の内部にあるものを深く見せてくれる。芸術家に必要なのは突飛な想像力ではなく、現実に対する強い認識力だ。多くの人が現実というものの表皮だけを見ているから、芸術家は驚異的なインスピレーションの持ち主と見られたりする。ドストエフスキーが自分を写実家と言った事実を思い出さなければなるまい。

 また、芸術が再現だという場合、芸術家はただ機械的に再現するのではない。紫式部が「源氏物語」で披瀝している芸術観のように、芸術家は内心に深く感じたのものを自らの脳中で再現する。再現そのものの中に、編集や加工というものが含まれている。そうしてその中核を占めるのは、心に深く感じるという行為である。

 今、目の前に一本の草木を描いた絵があるとする。この絵の価値はどこにあるのか、と言えば、その画家が、元になった草木を「いかに」見たか、にかかっている。対象への認識の深さが、心中の味わいとなって広がり、それが意識の中でイメージとして示される。イメージされたものは手という道具を使って表現されていく。それはただ心の中にあるだけのものではなく、全身の運動を伴って表現される。

 宗教と芸術は不可分の関係にあり、互いに密接に重なり合っているが、それは人が心の中に深く感じるものとして共通項があるからだろう。仏を信じて仏を彫った人間と比して、形式的に仏を彫る人間はより良いものは作れるだろうか。しかし、こう問わなくてはならない。「信じるとは技術であるか」 技術として何かを信じる事などできない。そこで、我々は途方に暮れるだろう。

 思い返せば、セルバンテスも紫式部もドストエフスキーも、みな人生の辛酸を舐め尽くしたタイプの人物だった。それが彼らの深さを作ったのだろうし、彼らの様々な「もののあはれ」を進化させたのだろうと思う。その頂点には、自分は、信仰としての神があるような気がしているが、そう言うと笑われるかもしれない。

 本居宣長の言うように、感情の最も深いものが悲しみだとすると、その先には多分、たどり着けない彼岸としての信仰がイメージされる。現実の辛酸を舐めたものだけが、桃源郷を我が物にできるが、それ自体はあまりの苦さが生んだ脳中の想像にすぎない。「源氏物語」は、底部の現実を昇華する場所として、仏教的境地を置いた。ここに紫式部は慰めを見出したのだが、これは紫式部の、当時としては異例の徹底したリアリズムと釣り合っている。村上春樹や川上弘美らに感じるなんとなく心地よい雰囲気は、それを描写の中で達成しようとする為に、厳しい現実認識を欠く事になる。彼らは現実内部に自分達の願望を持ち込む為に、徹底したリアリズムを失い、同時に彼岸としての理想郷も失う。

 芸術家というのは考えてみると、特殊技能を持った突飛な連中ではない。そうだとしたら、我々は彼らの作品に感嘆する事が不可能になる。現実には彼らは、単に人が見落としているものを見たにすぎないだろう。優れた画家が目の前に現れると、我々は自分が何も見ていなかった事に気づく。優れた文学作品に触れれば、人間の奥底にはこんなものがあるのかと気づく。それは芸術作品の内部だけのものではないのだが、この閉塞した社会は、芸術それ自体をシステムの中に取り込んでいるが為に、芸術家を目指す人間はその枠組の中で努力する事から始める。ここに間違いがあると感じる。

 芸術というのは、作者の主観や内面を通じて世界に開かれている。我々は、自分が決して自分の目で世界を見ていなかったと、絵を見て、書を読み、音を聴いて感じるべきなのだろう。人間世界はちっぽけなものだと偉大な芸術は気づかせてくれるが、それを作ったものが人間だというのに我々は驚くのである。世界はまだ底の方で眠っている。そうして、我々はまだ彼岸にいてこれに適切な照明を当てていない。もしこれに照明を当てる最も適切な方法が「科学」なのだと、ニュートンが主張するとしたら、それもまた正しいだろう。様々な学問も芸術も認識によって世界を広げる為にある。その広大な世界を目の当たりにした者は「その世界は何の為にあるのか?」などともはや質問したりしないだろう。彼はただ自分の目で真の世界を見られた事に、感謝している。彼の目には喜びの涙が浮かんでいる。そういうものではないだろうか。

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