パッケージ化されたもの

 自分の目で物を見るのは難しい。私はほとんどの人間は自分の目で物を見ていないと思っている。同じ事だが、ほとんどの人間は自分の価値観を持っていない。

 私自身は自分の価値観を持って生きているので、他人もそうだろうと思ってきた。だが、実際はそうではないらしい。私が自分の価値観を語ると、不快な気分になり、激高する人間がいる。そういう人は、私の価値観に対して、その人の価値観をぶつけてくるような事はしない。そうではなく、彼は、私が「価値観を持っている」事自体に腹を立てているのだ。

 どうして彼がそんな事に腹を立てるかと言うと、彼は価値観を持っていないからだ。彼が不快になるのは、「自分の価値観を持っている誰かが存在している事」に対してだ。

 価値観を持っていない人間は、世の中が与えてくれる既成の価値観を受け入れて生きている。タイトルにしている「パッケージ化」とはその事を指している。パッケージ化されたものをそのまま丸呑みして、消費する事で彼らのライフスタイルは成り立っている。そこに自分の価値観はない。彼らはまず、権威に従う事から人生のスタートを切ったので、権威に従わず、「自分」を持っている人間を前にすると、畏怖を感じ、苛立ちを覚える。

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 わかりにくいだろうから、もう少し具体的な話にする。少し前だが、「伝説のキャバ嬢」で「ユーチューバー」のエンリケという人がよくネットニュースに上がっていた。

 ニュースに上がった理由は、彼女絡みのイベントで死者が出たからだが、その件は今は関係ないので置いておく。自分が奇妙に思ったのはそこではなくて、エンリケが、「金持ちアピール」的な行為として「海外旅行」や「ブランド物爆買い」などをしていた事だ。

 素朴な疑問だが、自分は「どうして金があるからといって、海外旅行やブランド物を買ったりするのだろう?」と思った。

 金があるからといってそれを使わなければならないという事はない。それに金を使う用途は無数にある。例えば、他の人にはわからない「高価な盆栽を買う」のような事でもいいはずだ。他人の目にはどれくらいの価値があるかわからなくても、自分にとっていいと思うものを買えばそれでいいはずだ。

 しかしエンリケという人がやっているのは「海外旅行」「ブランド物」という、金持ちがやりそうな典型的な行為だ。

 どうして彼女がこうした行為をするかと言うと、「金持ちは海外旅行をしたり、ブランドバッグを沢山買ったりする」という通念をなぞっているからだ。要するに、エンリケという人間は自由でもなんでもなく、「自分」があるわけでもなく、「金持ちはこうするだろう」という考えをなぞっているに過ぎない。

 それを見ている視聴者もまた、そういうイメージから一歩も出る気のない人々だろう。ここでは視聴者と演者の間でステレオタイプなイメージが反響し合っているだけで、そこに独自の価値観や個性というものはない。むしろ、人々はそういうものを消去しようとしている。多くの人に認められたいという行為が、多くの人が漠然と抱いているイメージと一致していこうとするのは私には当然の流れに見える。要するにここでは個性の欠けた、低レベルなやり取りが行われているに過ぎない。

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 そうした行為が行われるのはエンリケのような有名人に限ってはいない。私のまわりを見ても、「健全な人達」は、大抵自分の価値観を持っていない。

 彼らは、有名な賞を取った映画を漠然と見たり、大ヒットしたアニメを見たり、まわりが勧めたものをなんとなく買ってみたりする。彼らは自分の価値観を持つ事に畏怖を抱いている。何故かと言えば、そのような「自分」は社会の中では差異として目立ち、「変な奴」に見られてしまう可能性もあるからだ。

 だから人々は積極的に自分の個性を捨てていく。人々は、他の人が承認している価値観に無意識的に自分を合わせていく。だから彼らはずっと健全でいられる。彼らは大多数が称賛しているものをなんとなく自分も消費する事で、自分が世の中から外れていないという安心を得ようとする。

 しかし彼らの根底には自分の底から湧き上がってくる衝動がないし、自分の存在を決定的に打つような感動がないので、心の底ではどこか不安である。いつも全体に合わせているが、全体が全体だから正しいという確証はないし、自分の底から自信や承認も現れてこないので、彼らにはいつも一抹の不安がある。

 不安があっても彼らはそれを対象化して取り出せない。不安があれば、彼らはますます、他の人達と同じものに打ち込み、同じ人種になろうと努力する。しかし不安はいつまでも消えない。

 そうした彼らは、社会によってパッケージ化されたものを消費していく。「熱海旅行」であるとか「芥川賞受賞作」とか「有名芸能人が使っているもの」とか、パッケージそのものは何でもいい。彼らはパッケージ化されたものを次々に取り替えるが、パッケージを外して、「それそのもの」を自分の目、耳で見てみようとはしない。それをすると、自分の価値観が試されるし、自分の価値観が試されると、(もしかして間違ってしまう)かもしれないからだ。

 私の言わんとする事は「禅とオートバイ修理技術」という本にも書いてある。そこでは、オートバイというものを、様々な部品が組み合わさった機能品と見ている語り手と、オートバイを企業が作って出荷する、それ以上動かせないパッケージ化されたものと考えている友人の差異が示されている。

 語り手はバイクの修理技術に長けている。壊れたバイクの調子を見て、空き缶の一部を切り取り、それで修理しようとする。だが、友人はそれが解せない。というのはバイクは「高価」なもので、空き缶のような安っぽいもので修理できるとは思えないからだ。

 友人の中では、オートバイはパッケージ化された動かせない存在として固定的に考えられているので、何気ない素材で修理できるとは思えない。高価なオートバイは、工場の奥底で、熟練した職人が修理するものだ、というようなイメージをしているのだろう。彼にはオートバイそのものが見えない。彼にはパッケージ化されたオートバイしか見えない。だから、ただの空き缶で修理しようとする語り手がわからない。彼は自分の中のイメージで生きている。

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 オートバイに言える事は、世界全体にも言える。見る目のない人間が世界を飛び回った所で、何一つ見えないだろうと私は思う。逆に見る目のある人間であれば、近所の川べりを歩いても、そこに無限に豊かな自然の相貌が見えてくるだろう。そういうものが見えない人は「熱海旅行」とか「ディズニーランド」のようなパッケージ化されたものを高い金を払って遊ぶしかない。そうした遊びは大人の遊びと思われるかもしれないが、認識の成長度合いとしてはむしろ幼稚な遊びだ。心の豊かな人は、世界を貧しいものと見ない。人々が目にも留めないものに豊かな世界の広がりを見る。

 美術館に行く道すがらの雑草や草花に目を留めて、その真価に気づいた人間が、美術館で陳列されるような作品を生むのだ、という真実は多くの人にはついぞ隠されたままだろう。この差異はこれから先も、そう簡単に埋まっていくとは私には思えない。
 

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