純文学(芥川賞)における"真面目さ"とは何か

 芥川賞受賞作「ハンチバック」は結構売れているようだ。嫌な言い方をすると、作者が重度障害者であるという『キャラクター』と、芥川賞という『権威』が合わさって、ヒットしたのだろう。「重度障害者」というのをキャラクターと言うのはひどいと言われるかもしれないが、現代の視聴者の消費の仕方を見るとそうなっているし、作者の方でも「当事者性」を否定していないので、そう言われても仕方ないだろうと思う。

 私は友人に、今回の芥川賞騒動について簡単に説明した。「こんな風になっている」と説明したら、「アンジェイ・ワイダの『残像』みたいだな」と答えが返ってきた。私も正しく、それに近い事を考えていたので「そう、そう」と返した。ここでアンジェイ・ワイダ『残像』について多少の説明が必要だろう。

 アンジェイ・ワイダはポーランドの映画監督だ。『残像』は彼の遺作であり、作品としても名作と言っていいだろう。『残像』の主人公は中年の画家であり、彼がソ連の政治的圧力に抗して、芸術家として最後まで絵を描き続ける姿が描かれる。政治的圧力に屈せず、全てを失いながらも、最後まで絵を描き続けた画家の話、と言えばある程度はイメージがつくだろう。

 舞台はポーランドだが、ソ連の支配が強まって、ソ連のイデオロギーに従うような芸術を強要される。それは「社会主義リアリズム」と言われる。私の友人は今回の芥川賞現象を「社会主義リアリズムみたい」と言っていた。私も同様に感じる。

 今から振り返ると、ソ連のような国は『悪い国』であり、社会主義によって芸術を抑圧するのは『よくない事』とされている。しかし、現在、同じ事を我々がしていないと誰が言えるだろうか。

 マルクス主義社会においては「民衆の為の芸術」というような事も言われた。我々のまわりを見ると、確かに民衆の為の素晴らしい作品が溢れている。民衆を喜ばせるエンターテイメント作品だ。それらは、難解な芸術作品よりも直接的な喜びを与えてくれる。すなわち芸術なんかよりも「社会の役に立っている」。
 
 「ハンチバック」という作品がもはや、障害者の権利拡大のイデオロギーを隠していない。こうしたイデオロギー自体は正しい事であろうが、そのイデオロギーが正しいという事と、その作品が素晴らしいという事とは別の話である。この二つを混同させる事が、芸術というものを破滅へと追いやる。

 「ハンチバック」という作品もそうだが、それ以前から、芥川賞作品は「政治的リベラル」という雰囲気があった。今回の件ではっきりしたと思うのだが、芥川賞における"真面目さ"とは何の事はない、「それなりのリベラルな政治的主張」という事になってしまうのではないか。

 芥川賞作品とは、普段は本を読まない人が、思い出したように買ってきて読み、「なるほど。勉強になった」とうむと首肯して、さっさとブックオフに売り払う、そんなようなものに過ぎなのではないか。

 芥川賞作品を読んで、時に障害者問題に思いを巡らし、時に環境問題に思いを巡らし、あるいはLGBTの問題を考え、あるいは震災や津波の被害者の気持ちになってみる。そんな風に、社会的に正しいと思われるような政治的事柄に思いを馳せる為の媒体でしかない。作品そのものの印象はたいしてなく、みなさっさと忘れる。逆に、文学を愛する玄人的な人はそもそも芥川賞作品を読まない。

 私には人々の本音が聞こえるようだ。本当の事を言えば、文学とか芸術なんてものは全然いらないのだ。そんなものはどうだっていいのだ。必要なのは「政治」と「エンターテイメント」だ。それらは「芥川賞=政治」、「直木賞=エンターテイメント」という振り分けになっていくのではないか。

 芸術というものが腐るほどに、芸術とかアートとかいう名が独り歩きするのも、おかしな事ではない。芸術でも何でもないものに「芸術」という立派そうな冠を授けるのを人は喜ぶからである。例えば「ダウンタウンの漫才は芸術だ」と言えば、人は嫌な気はしないだろう。

 そんなこんなで芸術というのは、そもそもが少数者の個人的な趣味でしかなく、大衆とメディアが接着したフラットな世界には存在し得ないものなのだろう。また、世界の圧力を無意識的に感じており、その圧力の通りに動く現代のインテリにも、芸術は全く必要ではない。ただ彼らは芸術に詳しかったり、自分がやっているのはそういう事だという見かけを持たなければ商売にならないので、時々そんなポーズをしてみるだけだ。

 さて、現代というのはそんな風になっている。アンジェイ・ワイダ『残像』で、最後まで描き続ける画家の姿を、我々は通例「立派な画家」と見る。作品の視点がそんな風に構成されているからだ。しかし現実に目を向けた時、我々はそんな画家がそばにいても、何も思わず軽蔑した目で眺めて、無意識的に世の中の力が動く方向に自分の視線も合わせてしまっていないだろうか。

 力の強いものは立派であり、力の弱いものは駄目なものである、と「力」から逆算して考えてはいるものの、それをその人物は自らの意識の俎上にあげる事はせず、ただ自分は「そういう価値観だ」で押し通す。彼はそうする事でいつも健常で、正しい社会人である事ができる。彼は価値観をいつも世界の運動する方向に無意識的に調整している。

 ドストエフスキーは「悪霊」で、マルクス主義的芸術について戯画的に扱っている。初期の小林秀雄もマルクス主義文学を痛烈に批判していた。ただ、これはマルクス主義という「左」だけに関係した話ではない。太平洋戦争下における日本文学の低迷は、政治的イデオロギーに芸術が屈した為だろう。

 太宰治は戦時下の文学について屈折した思いを持っており、屈折を隠した小林秀雄より、よりはっきりと問題を露出させている。太宰の「鷗」という短編の中に、戦地の兵隊が書いた小説を批判している箇所がある。太宰は、戦争で戦っている「兵隊さん」がいかに苦しい、命を賭けた戦いをしているか、それには全身で同情し、涙しているわけだが、それにも関わらず、「やっぱり駄目な作品は駄目だ」と言おうとしている。

 ここで太宰は文学作品の良し悪しと、戦地の兵隊が命がけで戦っているという涙なしには語れぬ現実とを分別しようとしている。芸術というのは、作者ー作品の政治的正しさとは違う所にあると言おうとしている。

 こうした事は大切なのではないかと私は思うがーーしかしこんな事を言ってもまあ無駄だろうとは思う。芥川賞はこれからは、政治的リベラルを売りにして、健常な市民がたまに読んで「勉強になった」と語り、あるいはたまには有名人に賞をあげて、有名人には芥川賞という「箔」をつけてあげて、その見返りに多少の売上をいただく…そんな風なものになっていくのではないか。

 結局の所、芸術というのは少数者のものであって、芸術作品とじっと向き合うのに耐えられない者は容易い政治的意味やら何やらの方向に向かっていく。それら素晴らしい作品は世のため、人のためになるだろうし、正しい政治的メッセージを持っているだろうし、さぞ立派なものであろう。これからは更にそうした作品が幅を効かせ、それと共にこの世界はますます中身のない、扁平なガラス板の如きものになっていくだろう。

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