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文学についてのインタビュー

 以下に転載するのは、私が読者の方から受けたインタビューの全文である。転載の許可は取ってある。

 ーーヤマダヒフミさん、今日はインタビューに答えてくれるという事で、ありがとうございます。

 「こちらこそ」
 
 ーー最初に疑問ですが、ヤマダヒフミというペンネームは「ダンガンロンパ」から取られたのでしょうか? 「ダンガンロンパ」がお好きだとも伺っていますが

 「いや、ただの偶然ですね。なんとなく、わかりやすいペンネーム、一度聞いて忘れないペンネームにしようと思ったらそれになっただけです。「ダンガンロンパ」のキャラクターとは関係ないです」

 ーーそうですか。てっきり、私は「ダンガンロンパ」から取ってきたと思っていました。ところで、ヤマダさんは評論家と言っていいのでしょうか? それとも作家でしょうか?
 
 「どちらでも」

 ーーそれでは、現代の文壇についてはどういう見解を持っておられるのでしょうか?

 「現代の文壇は、あまり知らないので、なんとも言えないですね。ただ、色々な事が日常生活の範囲内で収まっている気がします」
 
 ーー「日常生活の範囲内で収まっている」とはどういう事でしょうか?

 「中村文則という純文学作家がいますが、彼の作品には本当の肉の痛みがありません。痛みについての描写が抽象的で、重たそうな話題を取り扱っていますが、実際には極めて軽いものだと思います。「進撃の巨人」という漫画を読んだ事があって、その作品の中で、女性が下半身を倒壊した柱か何かに圧迫されているシーンがありましたが、そのシーンにもまったく痛みというものを感じませんでした。おそらく、これらの作者は現実の中で本当に自らの極限、実存、つまりは深刻な何かを経験し、それを自分自身で認識するという事がなかった為に、作品の描写があのように軽くなったのだと思われます。平和な日本で育ってきた彼らが想像力だけで、そういうものを書くのは難しいんじゃないかと思います」

 ーーそれではヤマダさんは、フィクションを作るにしても、深刻な体験をする必要があるという考えでしょうか?

 「まあ、そうです」

 ーーしかし、例えば、シェイクスピアのような作家は、日常生活であまり深刻な経験をしたというのはそれほど認められないのですが、にもかかわらず、あれほど壮大な作品を作り出しました。その点はどうでしょうか? 経験と作品の関係は、ヤマダさんがおっしゃるように、簡単なものではないのではないでしょうか?

 「それは本当におっしゃる通りですね。ただシェイクスピアに関しては資料も少ないし、時代も違っていたし、そう簡単には言えないと思います。シェイクスピアの前後は血なまぐさい時代で、かろうじてエリザベス女王の時期に安静を得ていた。シェイクスピアは、血なまぐさい現実を十分見て知っていたのではないかと思います。まあ、はっきりとはわからないのですが」

 ーーそれで、経験とフィクションとの関係はどう整理されるでしょう?

 「もちろん、経験した事だけをフィクションにできるというのは真っ赤な嘘です。それは反証がいくらでもあります。ただ、私は、経験というものを事実の経験ではなく、魂における経験という風に考えると、作家は、自分の経験を作品に形作る事しかできないのではないかと思っています。

 例えば、人殺しを書くにあたって、実際に人を殺す必要はない。ただ、自分の中に人殺しと同じ精神がある事は認めなければならない。そういう悪が自分の中にあると認めなければならない。現代の文学がつまらないのは、みんながいい子だから、と言い換える事もできるのではないかと思います。自分の中に悪を認めていない。彼らは正しい意見ばかり言っています。犯罪者を更生させる方法については、社会的観点から立派な事は言いますが、彼ら自身の中に犯罪者の芽があるとは考えても見ない。この「他人事」が文学をやせ細らせているのではないかと思います」

 ーーそれは文学だけに限らない問題ではないでしょうか? 私も様々な事に「他人事」を感じます。すぐにメタ視点に立ちたがるというか…
 
 「おっしゃるとおりですね」

 ーー話を戻しますが、それでは、過去の文学者には、おっしゃるような「肉の痛み」があったのでしょうか? 何故、過去の文学者にはそれがあったのでしょうか? 過去の文学者というのは、一体、どのあたりを指しているのでしょうか?

 「それは整理して論じなければならない事でしょうが。一つには戦後文学なんかは、今とは違うドロドロ感がありましたよね。島尾敏雄とか椎名麟三が好きですが。しかし一番好きなのは明治文学で、夏目漱石が日本文学では一番えらいのではないかと思います」

 ーー漱石のどのあたりが偉いのでしょうか?

 「文学とは人間とは何かを描くものだと思いますが、それを描くにあたって、封建社会の旧倫理と、新社会ーー近代社会の自由性とが激突するという状況は都合が良かった。封建社会においては、個人の欲望を抑える事が社会の維持に必要だった。一方で、近代社会においては、欲望の解放、内面の自由の謳歌が重要だった。その矛盾が日本的な形で、最も強烈に激突したのが明治時代だった。その矛盾を最も強烈に表現したのが、漱石と鴎外の二人だった。だけど鴎外は途中で問題から真正面にぶつかるのを避けたので、漱石一人が残った。…そんな感じでしょうか」

 ーー今の話、もう少し詳しく教えてください。「人間とは何かを描くもの」だとヤマダさんはおっしゃいましたが、それがどうして旧社会と新社会の激突と関係するのでしょうか? 私にはよくわからないのですが。

 「…それは難しい話ですが、人間の本質とは異質なものの激突によってしか見えてこないからではないでしょうか。例えば、今の社会においては資本主義一強で、欲望は、システムと合致する限り肯定されます。個人の意識も欲望の拡散と共に流れていくだけです。一つの方向だけが勝ってしまい、矛盾するものがないので、人間の一面的な側面しか見えてこない。

 人は何故、苦しむのかと言うと、AとBというものが対立し、どちらとも決着がつかないからです。しかし、今はAならA、BならBで単純化されてしまった為に、文学は作りにくくなっているのではないでしょうか。実際、誰かが苦しんでいても、人はすぐにその処方箋を与えてくれるでしょう? 頭が痛ければ頭痛薬を飲め、という具合に。たやすく解答が与えられる社会においては、悲劇は作りにくいのではないかと思います」

 ーーなかなか面白い話ですね。ところで、どうして人の苦しみを描く事が、人間の本質を描く事になるのでしょうか? それは何故でしょうか?

 「(しばし沈黙)。……それは難しい問いですね。多分、人間というのは、何かかから何かに移行しようとする生き物なのではないでしょうか。人間は社会にくるまれて生きていて、友達や仲間がいれば安心できます。社会や、周囲の人間と同じ価値観なら安心して生きられます。だけど、社会も変わっていかなければならない。そういう時に、いわば進化の過程として、少数の個人が、今の社会と次の社会の橋渡し役になる。そういう、現在と未来の矛盾に引き裂かれた存在こそが「個人」なのではないでしょうか。

 そういう個人は、やがて来る社会を予告しますが、彼が存在している社会からは疎外される。そういう関係があると思います。だから、苦しみの中に人間の本質があるというのは、人間というのは、「今」という名の安住を捨てて、次の世界に旅立とうとする性向がある為ではないでしょうか。もちろん、多くの人は安住する事を選びますが」

 ーーそれは面白い意見ですね。それでは、そういう個人を描く事が「文学」なのでしょうか?

 「そうなんじゃないかと思います。まあ、難しいですが。ただ、文学には「敗北」という要素もあります。どうして勝利ではなく、敗北なのか。これも考えてみると難しいですね。最近、フォークナーを読んでいますが、フォークナーは明らかに敗北というものにこだわっています。だけど村上春樹なんかは、敗北したくないタイプでしょう。どうして村上春樹よりもフォークナーの方がいいのか。それには敗北という名のリアリズムみたいなものが関わっているのではなかと思うのですが…」

 ーー「敗北という名のリアリズム」?

 「はい。勝利よりも敗北の方が文学では重要です。だから喜劇よりも悲劇の方が価値があるとされる。それが何故なのか、私もまだよくわかっていません。ただ、少し考えた結果を言うなら、こういう事です。人間というのは、想像力で、神と永遠とか、そういう概念を考える事ができる。しかしそういう考えを持つ事ができるという事と、そうなれるというのはまた別の話です。

 ナポレオンは、ナポレオン以外の人には英雄ですが、ナポレオンの中にある英雄像からすれば、遥かに小さな存在だったのではないか。…私はこういう風に考えているのですよ。例えば「罪と罰」のラスコーリニコフを批評する時に、「彼は何故ナポレオンになれなかったのか」という問題提起がなされる。ラスコーリニコフはナポレオンになろうとしていましたが、自分の存在の小ささを知って、絶望しましたからね。だけど…ナポレオンとラスコーリニコフには本質的には似ている存在なのではないか。というか、本質的には同じ存在なのではないか。ただ、相対的にその大きさが違うというだけでね。

 ナポレオンに関しては面白い話があって、彼は晩年、孤島に閉じ込められていたけど、最後には部下を指揮して、立派な庭園を作ったそうです。「それが彼が起こした最後の奇跡だった」と伝記には書いてありました。ナポレオンはその時、自嘲しなかっただろうか、と私は思うのです。ラスコーリニコフが自分を笑ったように。

 「世界を握っていた俺が今や庭園づくりにこんな精を出している。こんなくだらない事はない」と。…でも、私は庭園を作っているナポレオンが好きですね。本当は、一つの帝国を作るのも、一つの庭園を作るのも変わらない、同じ事なのではないかと考える事もあります」

 ーーそうですか。なるほど。それで…話を戻しますと、敗北がリアリズムと関係があるとはどういう事でしょう? リアリズムは敗北とどう繋がるのでしょう?

 「今言った話だと、自分で自分を自嘲する、そういうところが「リアリズム」ですね。勝者は酔う事ができるけれど、敗者は現実を見つめなければならない。そういう事です。文学は現実を直視する立場なので、勝者の酔いはかえって、文学者には毒なんですよ。成功が文学者を駄目にする例はよくありますが、それは、酔っていたら書けないからです。自分はナポレオンではないとラスコーリニコフは気づきましたが、その気付きがリアリズムだと思います。リアルというのは、酔いから覚めて見えてくるもので、その為には敗北が契機になる事が多いのだと思います」

 ーーなるほど、それでわかりました。敗北がリアリズムと繋がり、リアリズムが文学である、と。という事は、エンターテイメントはまた別なんでしょうか? エンターテイメントは敗北よりも勝利を好みますが。

 「エンターテイメントは文学とは違うものだと思います」

 ーーエンターテイメントと文学、芸術の融合を説く人もいますが

 「それは結局、文学にも芸術にもならないと思います。エンターテイメントを強化する事にしかならない」

 ーーエンターテイメントはお嫌いなんですか?

 「いえ、好きですね。ただ、好きなものだけで全てが足りるとは思っていないという事で」

 ーーなるほど。エンターテイメントは今、隆盛ですが、それに関しては?

 「一種の流行りだと思います」
 
 ーーエンターテイメントは、文学とは関わらないんでしょうか? ドストエフスキーやトルストイにはエンターテイメント性があると思いますが。

 「本質的には関わらないと思います。ドストエフスキーは、「地下室の手記」という個人の意識の究明から、大きな物語の構造に移っていっている。もしかしたら関わるかもしれないけど、関わると考えると、物語の形式だけをうまくやって、その中に文学っぽい事を詰め込んで「ほうら、エンタメと文学の融合だ!」という人が出てこないとも限らない。

 だから、とりあえずは、全然違うものだと考えた方がいいと思います。エンタメと文学の融合は形式だけではどうにもならない。形だけでやろうとした人は、みんな失敗しています。だから、とりあえず難しいものと考え、違うものだとわけて考えた方がいいと思います。本当は私は、物語は、宗教という枠組みと関係があるんじゃないかと考えていますが…」

 ーー物語は宗教と関係がある? …それはどういう事でしょうか。

 「それについて話すと長いし、まだ考え中なので、今は勘弁してください。ちょっと、難しいですね」

 ーーそうですか。それでは最後に、ヤマダヒフミさん自身はこの先、どういう作品を書いていこうと思っていますか? 評論でも小説でも構いませんが。

 「何も思いつかないですね。正直、虚しさしかありません。何を書いても。ただ、文句は自分の中から湧いてくるので、文句に頼って生きているようなものです」

 ーーその"文句"を必要としている人もあるのでは?

 「いるんですかね」

 ーーいると思いますよ。…それでは、インタビューはこれで終わりにしましょう。今日はどうもありがとうございました。

 「こちらこそ、ありがとうございました」

 インタビュー日 2023/05/13


※ 本インタビューはフィクションです。文学論を直接書くのが面倒だったので偽インタビュー形式にしました。

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