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 また、夏がやってきた。我々にとって夏は死の季節である。
 
 私の愛好するバンド「神聖かまってちゃん」の楽曲内においては、夏は両義的な意味を持っている。作詞作曲を担当する「の子」は一貫して、その夏の像を描いている。
 
 彼にとって夏は生命力が横溢する美しい季節であるが、同時に、その流れに取り残された自分を反省する時期でもある。例えば「フロントメモリー」の『いつまでも先に進めないのは/こんな夏さ また』という歌詞は二つの意味を孕んでいる。夏は、世界から取り残された少年が自然を通じ、懐かしい日本の風景と交感して自己を解放する時期であるが、同時に人々が楽しむようには楽しめないという意味を持っている。
 
 思えば、の子はずっと「夏」を追ってきたと言ってもいいだろう。代表曲の「23才の夏休み」は、取り残された青年の夏である。
 
 この曲における解放感は、人々のように水着で海を楽しむ事ができない、普通の「青春」を持てなかったが為に現れた解放だと注意する必要がある。「23才の夏休み」のPVでは、裸の痩せこけた青年が全力で浜辺で自転車を漕いでいる。
 
 そう言えば北野武の「キッズ・リターン」においても、若者の未熟さを表す為に、自転車に二人乗りする青年の像をポイントとしていた。その像は、淀川長治の言うように、北野武という一つの運命の中で歌われた「詩(ポエム)」であろう。の子の心中の映像でも、彼の詩は、浜辺で自転車を漕ぐ青年の像に集中された。
 
 偶然の一致かもしれないが、北野武の「ソナチネ」において、ヤクザ達は沖縄の美しい砂浜で遊ぶが、彼らは海の中には入らない。水着で泳いだりしない。何故かと言えば、それは死の予感を孕んだ遊戯だからであって、この先の緊張感に満ちた戦いを予期しているからこそ、完全に遊び戯れる図になってしまう「海」には入らないのだと思う。あるいは、「海で遊ぶ」事が普通人が享受できる愉しい遊びだとすれば、カタギではないヤクザはそこには入り込めない、と言えるかもしれない。北野武の映画においては常に、「普通」から疎外された人物達が主軸を形成している。
 
 「23才の夏休み」においても、海で戯れ泳ぐ事はない。砂浜を自転車で漕いだりする程度だ。その夏はあくまでも、世界の裏側にある「夏」であり、人々の世界から放逐されたが故にやってきた真の夏、つまりは現実世界から疎外され、音楽の中にのみ自己を形成させる事ができたの子という異端児の魂の象徴になっているはずだ。
 
 また、私は、「23才の夏休み」という楽曲の「23才」という年齢設定も、詩人的センスを感じさせるものだと思っている。23才と言えば、普通であれば大学を卒業して新卒で、会社に入っている年である。24才になると、はっきり大人の世界に入ったような印象があるが、23才という年齢はまだ若い、「20才」という年齢に引きつけられている。要するに23才とは丁度、子供と大人の境目の年齢であるが、それにも関わらず子供のまま、大人になれず、相変わらず「チャリ」を漕ぎ続けている。そういう青年の像が、よりくっきりとしてくる。
 
 私にとって、神聖かまってちゃんというバンドは、世界の裏側の解放感を感じさせてくれた最初の存在だった。その事を今も感謝している。
 
 さて、また夏が来た。我々にとって夏は死の季節である。何故か? …夏は生命の充溢する時期である。太陽が天高く上り、強い光を放つ時期である。そこで、マイナスへの道を歩く事をプラスに転換しようとする我々ーー我々のごとき存在ーーにとっては、夏はあまりにも眩しすぎるという事になるだろう。我々以外の諸々が強い生命力で自己を成長させていっている時、かえってそれは我々という暗部を照らし出すようなものに感じさせてしまう。だからこそ夏は死の季節であり、我々の中にある暗い死をよりはっきりと可視化させる。
 
 だがその中で爆発する、強い思念の、感情の、感覚の力とは何か。暗いものの中で明るく輝くものがあるとして、それはなんなのか。そう思うと、それもまた夏が我々にもたらす一つの形象なのではないかという気もする。結局の所、我々は自然の一部であり、それから逃れる事はできない。
 
 太陽が眩しすぎて、我々はいつものように室内に逃げ込む。しかし夜の中にも、部屋の中にも、洞穴のような心の中にも我々は太陽を発見する。そうした光景は、例えば、グラウンドをチャリンコ漕いでいる無気力な二人の青年のように、あるいは、浜辺を裸でチャリ漕ぐ少年のように、ある種の明るさを持つものであろう。

 その中で我々はまた人々とは違う夏を送るだろう。我々はそこで生きる。そこは暗いが故に明るい世界だ。そこにはトレースされた入道雲も、大きなひまわりもあるだろう。我々はそこで「この」夏を送る。その夏ーーそこで我々は解放されるだろう。その像を心の内に描く事が可能だろう。それがきっと、我々の、いや、私のーー愚かな私ただ一人のーー夏なのだ。そうではないだろうか?


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