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「法律」で頭が止まる

 ジャニー喜多川の大規模の性加害が問題になってから、ネットでジャニオタ(ジャニーズファン)の反応をちょくちょく見ているが、正直、怖くなるようなコメントが多い。このコメントが翻訳されて、海外に回ったら、また日本というのはヤバい国だという印象が強くなってしまうのではないか、と思った。
 
 そうしたコメントの中で非常に多いのが、ジャニー喜多川の性加害については「法律で裁け! 証拠もないのに批判するとはけしからん!」というものだ。
 
 そもそも、ジャニー喜多川の件は、過去に警察が動かなかった事、法律が機能しなかった事から、今こうして大問題になっていると思うのだが、このエッセイで言いたいのはそうした事についてではない。それよりも、「法律に従うべき!」というのがいかにも正論であるかのように声高らかに発言されるという最近の風潮についてだ。
 
 これはジャニー喜多川の件にとどまらない。一時期、ネットニュースを見ていると「弁護士に〇〇という事件について尋ねてみる」といった記事がよくあがっていた。
 
 もちろん、弁護士は法律の専門家だから、法的にどうであるかは細かく答えられるだろう。しかし、法律でセーフかアウトかという事と、それが正義か悪かというのは、重なっている事もあるが別問題である事もある。どうもそのあたりがよく考えられていないのではないかという気がする。
 
 私は法学に全然くわしくないが、当たり前の観点から話を進めてみよう。法律というのは何の為にあるかというと、社会的に正義だと思われる事を実行する為にある。正義とは何かと言えば、一人の人間だけの意志や欲望が尊重されるのではなく、社会的に、人倫としての正義、つまり人々の間を平穏に保つための社会的正義、その為に法がある。
 
 しかし、社会的に何が正義かと言うと、それは社会によって違う。例えば、大麻が違法である国と合法である国がある。聞いた話だと大麻は大して体には悪くないらしい。日本では、タバコは合法だが、大麻は違法である。しかし、大麻が合法である国もある。これは、その社会によって、正しいとされる規定がそれぞれ違う、という事だ。法ー正義は相対的なものだ。
 
 また、法がいくら社会正義を実行すると言っても、実際にはそれがうまくいかない場合もある。ジャニー喜多川の件ではじめて知ったが、強姦罪というのは以前は、男性が女性を強姦する場合にだけ用いられたそうだが、2017年に法改正が行われ、男性も被害者として認められるようになったらしい。これなども、法ー正義が絶対的なものではなく、現実の変化に合わせて動いていくという証左となるだろう。
 
 こうした事例を出して言いたいのは、「法律」というのはあくまでも現実的な機能であって、法律を守っているから絶対的に正しいわけでもなければ、法律を破ったから絶対的な悪であるとも限らない、という事である。
 
 もちろん、我々は一人の人間として、市民として、法律を守らなければならない。それは当然だ。ただ、その事実があるからといって「法律は絶対的に正しい」と考える必要はない。
 
 「考える」という事は現実の規定を突破する。法律を越えて自由に議論する事は許されているはずだ。根源的な善とは何か、悪とは何か、それを哲学者達は語ってきたが、彼らがだからといって、法律を絶えず破っていいと考えていたら、それはおかしな考え方だろう。
 
 考えたり、議論したりする上において、例えば「大麻を合法化して欲しい」というのは自由だし、許されるだろう。ただ、「大麻は体に悪くないのにそれを禁止する日本は諸外国に比べて遅れている。だから自分は大麻を吸う。自分は全く悪くない!」と言って、大麻をやり始めたら、それはおかしな話だろう。
 
 というのは、我々は大麻が良いか悪いか、それを普段、根源的には考えていないが、「少なくとも大麻は良くない」という法の下で生きているからであって、それを一気に破ってしまうのはおかしい。
 
 我々は法律の下で生きているが、それはやむなくそうしている、やむなく受け入れている規定であり、それが絶対的に正しいかどうかとは、違う話である。この二つを、自分の党派性を擁護したいが為に、あるいは反対党派を貶める為に意図的に混同させるから話がややこしくなるのだと思う。
 
 ※
 話を戻そう。私が疑問を感じたのは「弁護士に〇〇という事件について尋ねてみる」といった記事が、あたかも弁護士にその事件の『正解』を出してもらおうという、そういう意図に見えたからだ。
 
 しかし人間関係を考えてもわかるが、法律違反じゃなくても、(これは人として駄目だろう)みたいな事がある。毎回、待ち合わせに三時間遅れるとか、人として約束を守れない、嘘をつくとか、法律で訴えられるほどの事例でなくても、倫理的にどうかと思われる事が存在する。その場合に「これは法律違反じゃないから悪くない! あなたが怒るのは間違っている!」と『正論』を言う人間はただのバカである。
 
 ただ今の世の中は「頭の良いバカ」が増えているので、倫理の話、正義の話、人として何が良いか、悪いかの話を振られても、細かな法律の話をすればそれで事が済むと考えている優等生も存在する。またそんな優等生の話を真に受けて聞いて、感心する愚かな人間もいる。
 
 こうした人達は根源的に物事を考えようとはしない。という、そもそも根源的に物事を考えようとする人はほとんどいない。
 
 タイトルの「「法律」で頭が止まる」とは、そういう事だ。例えば、かつては「良心は神の声」という事が言われた。アメリカの社会学者は「西欧は罪の文化、日本は恥の文化」と言った。そうした差異はあるが、それはともかく、倫理的な観念というのは別に法律であったわけではない。法律がどうであるかどうかよりも、各人の内面に、「どうあるべきか」という倫理的な体系があった。
 
 今の日本人にもそれがあるかと言うと、なくはないと言ったところだが、どっちかと言うと、そうしたものが溶解してきており、内面的なもの、観念的なものは根拠がなく、脆弱だと一般に思われているので、そういう場合にやむなく「法律」を倫理的な根拠として出してくる。法律は客観的なものに見えているからだ。

 しかし、法律といったものはあくまでも形式でしかないので、法律の網の目を縫って悪事を働くのも可能だし、権力者が自分達の都合で法律を捻じ曲げる事もできる。
 
 頭が法律で止まるのは、「自分達は法律を守っている=法律は絶対的に正しい」と思考停止しているからだ。しかしこの思考停止は、思考というコストを削減するという意味では正しい。一般市民としてはその方が楽だ。
 
 しかし、そういう一般市民としての常識的な態度で、そのまま本質的な議論をしようとするから間違いが起きる。考えるという事、論じるという事、批判するという事、それらはこの社会では誰でもできる簡単な事だと思われている。それ故に評論家は人気がなく、下に見られている。実際、評論家なんていうものは愚かな人間を焚き付ける「インフルエンサー」と大同小異といったところだ。
 
 こういう事態になっているのは、考えるという事の自由性が何であるのか、また、何故、根源的に考える事が大切なのかというのがわからなくなっているからだ。それらの重要性については、西欧における哲学の意味、あるいは無意味に見える神学論争にどんな意味があったかなど、色々考えなくてはならないのでここでは書けないが、いずれにしろ考える自由を行使せず、常識で頭が止まるというのは、本質的なものについての議論とはそもそも展開されている空間が違うという事になる。
 
 全てが"俗"に還元される社会においては正義については法律の話をして、金の話、性の話、誰を推すか、どのゲームが好きか、そんな話ばかりしておけば済むのかもしれないが、今崩壊しているのはそんな風におしゃべりしている人達の土台そのものである。
 
 こういう時代にこそ、根底的に物事を考えるのが大切だと思うが「「法律」で頭が止まる」というのは、考えるという事の意味がわかっていないから、としか私には思われない。

 ただ繰り返し言うが、法律を越えて思考する事と、法律を破っていい事とは違う事柄だ。世の中には一般市民の常識だけでは推し量れない世界があり、一段と高い視点で見れば我々が住んでいる世界もそういう世界の一部なのだと思う。

 だからこそ、過去の、難解でわけのわからない事を言った哲学者が「古典」という形で歴史に残されたのだ。彼らは「法律」で頭が止まるような事は決してなかった。彼らはむしろ「法律」とはそもそも何か、という風に根源的に考えたのだった。

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