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「たとえ明日世界が終わるとしても、私は今日りんごの木を植える」

noteどれぐらい時間かけて書くんですか?

あーだいたい何日もかけて、時間でいうと5時間ぐらいかかるのかな?読んではそのリズムの悪さから言葉を選び直して、辞書引いてしっくりくるものを選ぶ感じ。

あ、でも掛けた時間が必ずしも読まれるものになるかって言ったらそんなこともなくて、衝動的に1時間ぐらいで書いちゃったものが読まれたりすることもあるからわからないよね。

でも、そういうものほど共感してもらえたり、感動を呼んだりするのは新鮮なままの悔しさや葛藤がそこ乗っかるからなんだとも思ってて。

どうやら今日の感情は寝てしまうと忘れてしまいそうだから今残しておいた方が良いと、テストの採点そっちのけでフリックしているわけだ。

2月11日、U9TRMを終えて

2月11日、祝日の今日はU9のTRMでした。県東部の6チームでの総当たりのゲーム。来年度から県大会に繋がる公式戦も始まる中で、そこに向けて良い力試しだったと思います。

最近はビルドアップからの前進もできるようになってきて、「良いサッカー」ができるようになってきています。おいおい、ボールを下からつないでいくサッカーが「良いサッカーかよ!」とツッコミを入れられそうなので、炎上回避、誰にも叩かれたくない、傷つきたくないがための最大限の逃げ場を用意しておくと、「自分達がこういうサッカーがしたいと決めたサッカー」を自分勝手に「良いサッカー」と定義した時に、そこに近づいているという意味での良いサッカーができるようになってきている…でどうでしょう?

ただ、今日で言うと負け越しています。小3のゲームとはいえ、やはり勝負事となると僕も負ければ悔しいし、勝つと嬉しいのです。負けるとちょっと向き合わないといけない感情の多さとやってきたことへの自信の喪失からどっとくる疲労、明日からまた仕事が控えていることを考えると気持ち良く眠りたい。だからできるもんなら勝ちたいんです。みんなそうだよね?

おそらくなんですけど、この感情と向き合わなくていいやり方もあったんです。これはちょっと嫌な言い方なんですけど、勝とうと思えば勝てるんですよ。現状最もそれぞれのポジションのタスクを理解していて、今の段階でチームのやりたいことを実現できそうな8人を揃えて5試合交代無しで臨む。少年団にしては面白い才能がちらほらいるんですよ。それができたら、全員を出せなかった後悔やベンチで複雑な気持ちで砂をいじる子ども達への申し訳なさを、おそらく結果がもたらす優越感が覆い被せて見えなくしてくれるんです。それぐらい勝つ事は薬に近いものを持ってるんです。

ただ僕は、14人の子ども達全員を心の底から大切に思ってるんです。一緒に過ごしてきた時間がそうさせるのかもしれないんですが、自分の子どもでもない他人を一度にここまで愛せるって幸せだよなって。本気で彼らの成長を生きがいにしているから、28にもなってそこ全振りで彼女もできやしない。

そう考えると、やっぱり補欠問題が議論される中で申し訳ないけど綺麗事を地で行く形にはなるんですが、やっぱり14人全員で戦いたいんですよ、僕は。ダメでしょ育成なんだから綺麗じゃなきゃ。

そりゃありますよ、「え、それトレーニングでやったよね?」って言いたいこと。「あーなんで奪われたのに歩いてるの!」って思うこと。ゲーム中、僕の口数が多くなってしまうのはそんなエラーへの修正が故のもの。それを確実に遂行できる8人を揃えたら僕は凄く楽だけど、じゃあ残りの6人はいつ学ぶのさそれって話で。

だから僕は「メンバー落とす」みたいな言い方は凄く嫌いで、そちらがドリブル主体で攻めようと決めてきたのと同じで、こちらは14人全員で行くぜ!ってのを戦い方にしてるんですよ。だから勝手に「メンバー落としたんですか?」とか聞いてくんなよ。そんなつもりはねぇよ。

だから現状ベストだと思われる8人で負けたことが悔しいんじゃなくて、14人で負けたことが悔しいんだって話なんですよ。

びっくりするぐらい構成悪い。リズムも嫌いだ。でも早くしないとこの感情が冬の寒さに熱を奪われちまう。

「たとえ明日世界が終わるとしても、私は今日りんごの木を植える」

大切に大切に育ててきた14人なんですけど、あと2ヶ月したら3人とお別れしないといけないんですね。それもこれまでチームを引っ張ってきてくれた3人だから本当に痛い。

で、いなくなることが決まった時、来年度のチームのことを考えたらその選手達はいないわけだから、出場させないで他の選手の出場機会を与えた方が勝つことだけを考えたら良さそうじゃないですか。まだまだそういうチームもあると思いますし、そりゃそうだよなと思う気持ちもわからなくはないんです。

ただ、これからうちで一緒に戦うことができなくても、やっぱり大切な選手達だから僕の手を離れるまでは変わらずに手を掛けたいんですよ。

大学に入学した時、一番最初のオリエンテーションで学部長がくれた言葉をふと思い出しました。

「たとえ明日世界が終わるとしても、私は今日りんごの木を植える」

確かルターの言葉です。(間違えたら恥ずかしいから、しっかりググったくせに「確か」なんて白々しい)

「解釈は人それぞれなんですが」とも言われたのを覚えているし、その後学部長が言っていたあの人なりの解釈も覚えてはいないんですが、この言葉だけは大学に入学した時にイキって生まれて初めて買った手帳の1ページ目に記してあるんで覚えていたんです。

木を植えて、水をあげて、大きく実った姿を見て僕ら指導者はその過程をやりがいや喜びとして享受すると思うんです。その中で、もしかしたら僕は3人がりんごとして成った姿を見ることはできないかもしれないんです。それはもうめちゃくちゃ寂しいんですが。

喜びを受けることができないのであれば、無意味だと取られるかもしれないわけじゃないですか。それでも巣立っていくその日まではやっぱり手放すことはできないというか、それが僕らの仕事だと勝手に思ってるんです。

その成果が見えなくてもやっぱり損得抜きで目の前の子ども達と向き合うことのできる人でありたい、そう思います。

なかなか難しいんですけどね。

最後に最近心に響いたあるお母さんの言葉
「みんな自分の子どもを早く見限り過ぎだと思うんですよ」

いつ上手くなるかなんてわからないんだから、明日も前向いて頑張るしかないな。



明日世界が終わるなら




















え、土曜の試合中止?



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